イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

志向性とは信である

 
 前回論じた「コギトの無力」からは、さらにもう一つの重要な帰結を引き出すことができそうである。
 
 
 論点:
 「コギト・エルゴ・スム」以外のいかなる認識も、厳密に言うならば「信じること」の契機を含んでいる。
 
 
 省察する主体であるわたしにとっては、いかなる信をも含むことのない直接的な認識としては、「考えるわたしは存在する」しか考えることはできない。逆を言えば、この意味における「わたしは存在する」だけは、いかなる懐疑主義者といえども決して否定することのできない純粋な明証である。懐疑し尽くして、「わたし」なる主語となるものなど存在しないのではないかと疑うとしても、それでも「考える」という出来事あるいは経験が存在するということだけは動かしえない。
 
 
 そして、この「コギト・エルゴ・スム」を超えるあらゆる認識は、厳密に言うならば「そうであると信じる」という契機を含んでいるといえるのではないか。
 
 
 たとえば、「今この部屋にいること」のような、剥き出しの事実にも思えるような事柄であっても、その所与が転覆される可能性(ex.「わたしは、悪霊に欺かれているのではないか?」「これは夢なのではないか?」)を考えることができる以上、そこには信の契機が含まれている。ある意味では、わたしは今この部屋にいるのではなく、今この部屋にいると信じているのである。今この部屋にいるという体験を、今この部屋にいると信じているという契機から切り離して考えることは不可能なのである。
 
 
 
コギト・エルゴ・スム 省察 懐疑 悪霊 志向性 自然的態度
 
 
 
 この意味からすると、現象学が志向性と呼んでいた意識の契機とは、まさにこの信じるという契機に対応するものであると言えるのではないか。志向性とは信である。これこそが、懐疑をめぐる私たちの省察から引き出すことのできる帰結にほかならない。
 
 
 わたしが、今この部屋の中で机の上に置かれたコップを見ている。この経験は、「コップが存在するとわたしが信じている」という契機から決して切り離すことができない。この契機は、大抵は無意識のうちに遂行されるものであるが(「自然的態度」)、それでも信であることには変わりがない。私たちが生きるということそれ自体が、このような「信じること」の多様かつ不断の遂行なしには成り立ちえないのである。
 
 
 ただし、この契機が他でもない信の契機である以上、厳密に言えば、この信それ自体の妥当性は疑いうる。おそらく、コップはまぎれもなく今この瞬間に、目の前に存在しているのではあろう。しかし、剥き出しの事実であるとしか思えないこの「コップは存在する」が、本当は悪霊による欺きあるいは夢であって、コップなどは実は存在していないという可能性もまた、論理的にはいつまでも残らざるをえないのである。
 
 
 「今、机の上にコップを見ている」といったような経験すらも信の契機を含んでいるのだとすれば、「コギト・エルゴ・スム」を除く私たちの知識の全ては、信じることと結びついてしか成り立ちえないことは明らかだろう。繰り返しにはなってしまうが、人間にとって、生きることとは信じることである。懐疑しつつ省察するわたしが問わなければならないのは、わたしはこのような「信じること」を現実に妥当するものとして考えなければならないのか、また、そうであるとすればその根拠とは何かという問いにほかならない。