イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

私たちの生の根底にあるもの

 
 論点:
 生きることそのものは、ある根源的信に基づいてのみ可能になるのではないだろうか。
 
 
 懐疑に基づく省察は、私たちが知っていると考えていることの根拠を問いただし、人間にとっては知るということそのものが、あるいは、生きることそのものさえもが信じることに基づいてしか可能にはならないことを示しつつあると言えるのではないか。
 
 
 たとえば、わたしは今この部屋にいて、懐疑しつつ考えている。しかし、この「今この部屋にいること」はひょっとしたら夢かもしれない(あるいは、悪霊に欺かれているのかもしれない)と考えうる以上、「わたしがそのことを知っている」というのは、正確には「わたしはそのことを信じている」なのである。あるいは、もし仮にわたしがそのことを「知っている」と言いうるのだとしても、それは、わたしがそう「信じている」ことと決して切り離せない仕方で知っているということを意味するのではないか。
 
 
 言うまでもないことではあるが、ここではたとえば、世界は本当は存在しないのではないかといった問いを問いたいのではない。まず間違いなく、世界は存在することであろう。しかし、通常そう思われているように、「世界が存在する」とはわたしにとって、そう信じているわたしの信とは関係のないところに成り立っている事実ではない。わたしにとっては、この世界の中で生きるということそれ自体が、世界が存在するという根源的な信と切り離して成立するものではありえないのである。
 
 
 
第四省察 デカルト
 
 
 
 このような根源的信は、わたしが生きている限りは決して停止させることができず、ほとんど意識すらされていないような生の根底である。この根底を言葉で言い表すとするならば、たとえば次のようになるだろう。
 
 
 根源的信:
 根源的信とは、わたしが明晰判明に、すなわちしっかりとした仕方で認識するものは真であるという、ほとんど意識すらされていない生の根底にほかならない。
 
 
 別の言い方をするならば、これは、わたしが明晰判明な仕方で見たり、聞いたり、あるいは他の感覚によって認識するものは実際に存在するということ、また、そうした存在する事物について思考によって認識することもまた実際に妥当するということである。
 
 
 こうした信はあまりにも自明なものであるために、哲学的思惟の外ではほとんど意識すらされることのないままにとどまっている。根底なるものは、それがあまりにも根底的なものであるがゆえに、それを根底として生きている精神そのものによっても知られることがない。懐疑する省察によって明るみにもたらされたのは、このような、私たち自身によっても知られることのない私たち自身の生の根底にほかならないと言える。
 
 
 デカルトの「第四省察」は、筆者がここで言う「根源的信」に当たるものの妥当性の検討に充てられている。すなわちデカルトは、このような原則は本当に正しいのか、正しいとすればそれはなぜなのかを問うたのである。すでに述べたように、私たちの省察は彼が提示した回答とは異なった角度から同じ問いを問うことになるけれども、問題を設定したこの哲学の巨人の問いの鋭さには、今さらながら、改めて尊敬の念を抱かざるをえないのである。