イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「危機」の時代は本当に終わっているのか

 
 問い(再提示):
 根元的信は、本当に妥当しているのか?そして、そうであるとすれば、その根拠は「疑いようのない現実であると思われるものが、わたしの意識に与えられている」という事実以外のどこにあるのか?
 
 
 このような問いを問わなければならない必然性はまず、人間が、絶対的なものを求めずにはいられない存在であるという事情に由来すると言えるのではないか。
 
 
 事実的なものの持つ力は確かに、圧倒的である。私たち人間は現実的なるものの重みに押しつぶされるようにして、たった一つの「この現実」を最後まで実存しぬくように強いられている。
 
 
 しかし、すでに述べたように、人間は、その「たった一つの現実」から逃れたくてたまらない存在でもあって、映画や小説の中では、「この人生が仮想現実であったら」とか、「死んだ後に別の人生が待っているのではないか」とか、そういった空想に没頭し続けている。だからこそ、人間には現実のように見えるものが与えられているという事実を超えて、なぜこの現実こそが「現実」であると言えるのか、その絶対的な必然性を探求することが必要になってくると言えるのではないか。
 
 
 このような探求を最初に実践した哲学者は、デカルトであった。なぜデカルトでなければならなかったかと言えば、それはおそらく、彼が生きていた時代のヨーロッパが、人間がリアリティの喪失という問題に根源的な仕方で向き合わなければならなくなった最初の時代であったからである。人間はそれまで、自分たちが大地の上で生きているという事実に対して疑問を持つことはほとんどなかった。近代の幕が開けるとともに、人間は「わたしは本当に世界のうちで生きているのか」という病的な不安を抱き始めるようになったのである。
 
 
 
仮想現実 デカルト 近代 ヨーロッパ諸学の危機 フッサール ハイデッガー リアリティ
 
 
 
 二十世紀の現象学が「ヨーロッパ諸学の危機」の時代に生まれたという歴史的事実は、よく知られている。
 
 
 しかし、この危機はおそらく、近代の始まりとともに顕在化し始めたリアリティ喪失の動向がますます昂進していったという、より深い危機の表れにすぎないことだろう。二十世紀前半の哲学者や芸術家たちは二度の世界大戦をも含む混迷の時期にあって、もはや人間には、何が現実であって何がそうでないのかといったことすらも危うくなっているのではないかという意識を共に抱いていた。フッサールハイデッガーの哲学は、現実がその基盤を失ってゆくという「危機」の鋭さに応答しようとするものに他ならなかったし、何よりも彼ら自身が、そのことに自覚的であったことも確かである。
 
 
 今日、世界はそうした「危機」の時期をとうに脱して、通常通りの運行に戻っているかに見える。数多くの現実的な問題は山積しているものの、二十世紀前半の人々のように、リアリティの喪失という度外れな不安あるいは狂気に取り憑かれるようなことは、なくなったようにも見える。
 
 
 しかし、本当にそうなのだろうか。現代の人間にとって、この現実が現実であるということの基盤は、本当に確かなのだろうか。むしろ、リアリティの喪失という危機は表面に現れてくることがなくなっただけで、きわめて「現実的」で、ほとんどの場合にはこの上なく「実利的」でさえもある現代の人間の心は、潜在的にも顕在的にも、なおもこの根源的な危機にさらされ続けているのではないだろうか。この点については、次回もう少し詳しく掘り下げてみなければならないが、少なくとも哲学は、デカルトによって提起された「わたしは本当に世界のうちで生きているのか」という問いに答える務めをなおも負っているもののように、筆者には思われるのである。