イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

大地的人間と観念的人間

 
 歴史に関する考察は単に補足的なものであるというよりも、省察において何が問題になっているのかを改めて問い、事象そのものへとより根源的な仕方で入り込んでゆくことを促すという点で、本質的なものである。ごく簡潔な見取り図を得るために、いわばミュトスを語るような流儀にはなってしまうが、ここで問題になっている事柄にまつわる歴史を一瞥しておくことにしよう。
 
 
 ①大地的人間の時代。かつて人間は、自らの生を支える根源的信(前々回の記事参照)にほとんど疑問を抱くことなく生きてゆくことができた。人間はいわば、自分たちが大地の上に根を下ろしており、大地こそは自分たちの住みかであるということを、違和感なく受け入れて生きることができたのである。彼らにとっては、自分たちが土から作られた肉体を持つ実存する人間であるということは、わざわざ問題にするまでもない自明な事実であった。
 
 
 ②ところが、近代の始まりとともに大地的人間の時代から、観念的人間の時代への移行が始まる。観念的人間とは一種の狂気に取り憑かれた、終わることのない独白の主体である。
 
 
 この人間にとっては、根源的信という支えさえもが自明なものではなくなってしまい、「わたしは世界のうちに生きている」といった言明までもがその確かさを失うことになる。どこまでも孤独で、他者と自分自身とを同じ一人の人間とみなすことができず、自己の独在性という牢獄あるいは地獄に固執し続けるこの人間には、自分自身が肉体を持った一人の実存する人間であるという事実までもが疑わしいものとなる。歴史は、このような「呪われた人間」を生み出すまでに至ったのである。
 
 
 
 ミュトス 大地的人間 観念的人間 根源的信 近代 ドストエフスキー 地下室の手記 科学
 
 
 
 「だいたいぼくらは、現在生きたものがどこに生きているのか、それがどういうもので、何と呼ばれているかさえ、知らない始末ではないか。[……]ぼくらは、人間であることをさえわずらわしく思っている。ほんものの、自分固有の肉体と血をもった人間であることをさえだ。」
 
 
 1864年の時点でドストエフスキーは『地下室の手記』の末尾において、上のように書いていた。観念的人間の登場とは一過性の出来事ではなく、歴史の流れの中で徐々に人間の世界を侵食してゆく類の過程なのであって、ドストエフスキーのような作家は、この過程が人間の生にとって持つ致命的な意味を、早くも見通していたといえる。
 
 
 もちろん、この過程は一様に進行し、すべての人々を一人残らず巻き込んでゆくといったものではない。現代においても、以前と変わらないような大地的な生を送る人々は相変わらず事実として存在し続けているし、上に描かれたような観念的な不安とは関わりなく生きる人々も依然として多数であることは言うまでもない。
 
 
 しかし、歴史の進行と共にこの過程も加速してゆき、大地的人間から観念的人間への移行もますますとどめがたいものとなってゆくということもまた、否定できないようである。情報技術の出現は、それよりもはるかに以前から始まっていたこの過程にさらなる拍車をかけつつ、観念化という出来事を人間の避けられない運命へと変えつつある。明確に意識されているかどうかは別にするとしても、「わたしは本当に世界のうちで生きているのか」は、現代の人間にとっての強迫観念になりつつあると言ってよいのではないか。
 
 
 言うまでもなく、ここに述べたような過程は歴史学やその他の「科学的な」探求手段によって実証できるような類のものではないので、このような見立てが本当に正しいのか、それが人間の生存にとってどの程度に重要な意味を持つものであるのかは、各人が自分自身の裁量で判断するほかないものと思われる。この点に関して筆者に付け加えることができるのは、少なくとも哲学者や芸術家と呼ばれる類の人々にとっては、この問題は今より以前にも以後にも、人間自身の生存のいかんを決定するような一つの「運命」であり続けるであろうという一事実のみである。