イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

三月の振り返り

 
 少し早いけれども、内容の区切り上、この辺りで三月の歩みを振り返っておくことにしたい。月の初めに開始した省察もここまでで前半部分が終わり、ここからが後半である。振り返りなので少し気を緩めて、普段の探求の裏話のような事情も含めて書いてゆくこととしたいが、三月の省察を経てたどり着いた地点はとりあえず、次のようなものであった。
 
 
 論点:
 懐疑する省察において賭けられているのは、「わたしは一人の実存する人間である」という言明の真正性にほかならない。
 
 
 わたしが特定の時代と場所のうちで生き、肉体を持つ、一人の実存する人間であること。改めて考えてみるならば、生きることにとって、これ以上に根源的な事実もないと言える。
 
 
 ところが見方によっては、これほどに酷薄な事実もない。自己が自己であるということは、自由と幸福の源泉でもあるが、多面では、重荷の中の重荷ともいうほかないような重責でもあって、人間は、「もうこんな人生なんてやめてしまいたい」と思うような瞬間がやって来ることも決して稀ではない。マルティン・ハイデッガーは『存在と時間』において、人間(彼自身の用語法においては「現存在」)の存在を「気遣い」として規定している。気遣いとは、要するに「気苦労以外は何もない」ということである(同書第42節参照)。人間の生とは、労苦の連続以外の何物でもないのである。
 
 
 ところが、だからと言ってここで「人間やめましょう」とか「人間の時代はもう終わった」といった主張に容易に転んでしまうのでは、哲学の名折れというものである。哲学はこれまで、一人の実存する人間たれ、あるいは人間らしい人間たれという、真っ当であるがゆえに厳しいことこの上ない呼び声に対して従順であり続けてきた。ポスト・ヒューマンを云々するのは哲学ではなく、現代のソフィストたちにでも任せておけばよい。哲学がなすべきは、真っ当に労苦し続けることの必要性をも含めて、揺らぐことのない「俺たちは人間だ」を頑固に守り続けることのみであろう(密やかなヒューマニズムとしての哲学)。
 
 
 
ポスト・ヒューマン ヒューマニズム 実存 マルティン・ハイデッガー 現存在 気遣い ソフィスト 存在と時間 悪霊 哲学
 
 
 
 ただし、哲学の特殊なところは、「わたしは一人の実存する人間である」というこの言明を、悪霊による欺きや夢の可能性等々といった極端に観念的な可能性に対して守ることも、務めのうちに含まれるという点である。哲学とはまことにマニアックでニッチな営みであると言わざるをえないが、筆者としては、これが今の時代の哲学が痛切に必要としている仕事であるはずだと信じている。
 
 
 個人的な事情に少しだけ触れておくと、筆者もいち哲学者としての自覚を深め、最近ではますます自身の務めに対する揺るぎのない確信を得ている……と書きたいところではあるが、実情は違うと言わざるをえない。やはり自分には哲学しかないと思いつつも、この道で本当に大丈夫なのだろうかと思い悩まない日はほとんどないけれども、周囲の人々にも支えられつつ、哲学を続けられているというだけでも恵まれていることを忘れてはならないと反省しながら、毎日のなすべきことに何とかしがみついているという状況である。
 
 
 哲学を探求することが目的なので、このブログもそのことの結果として、決して読みやすいものにはなっていないことは、かえすがえす自覚しておかねばならない。だからこそ、書いたものを読んでくださっている方がいるということに対しては、ただただ感謝するほかないのである。しっかりとした哲学の仕事を打ち立てることを目指して、引き続き日々の研鑽を重ねてゆくこととしたい。