イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

省察の後半戦:他者の問題圏へ

 
 さて、ここからがいわば省察の後半戦である。後半戦の問題設定は、次のようになる。
 
 
 問題設定:
 他者の存在は、懐疑する省察に対してあの「絶対に疑いえないもの」を提示するのではないだろうか。
 
 
 省察するわたしは自分自身の生、あるいは自分自身の生であると思われるもののうちで、さまざまな他者たちに出会う。すなわち、わたしと同じように人間の姿をした、無数の人々に出会うのである。
 
 
 当たり前のように思われることではあるが、改めて考えてみよう。彼らもまたわたしと同じように、意識を持っているはずである。つまり、わたしと同じように見、聞き、感じ、考えているはずである。このことの真実性は、どうなのだろうか。このこともまた、これまで懐疑してきたさまざまなこと(そのうちには、私たちが根源的信と呼んだものも含まれていた)と同じように、その妥当性を疑うことができるのだろうか。
 
 
 一見したところ、そのように見える。すなわち、他者たちは意識あるいは心を持っているようには見えるけれども、そのことは実は見かけだけで、本当は彼らの心などは存在しないということはありうる。そのように見える。
 
 
 しかし、どうなのだろうか。わたしには果たして、他者の心が存在しないと信じながら生きてゆくことが可能なのだろうか。あるいは、仮にそれが可能であるとしても、もしそのように信じるとすれば、わたしはある意味で他者の存在を認めない、殺人犯として生きてゆくほかなくなってしまうのではあるまいか。人殺しになってしまうことを避けようとするならば、わたしには、他者の存在をまさしく「絶対に疑いえないもの」として認める必要があるのではないか……。
 
 
 
他者の存在 省察 哲学の歴史 エマニュエル・レヴィナス
 
 
 
 以上のような問題設定が、省察の後半戦において掘り下げて考えてみたい主題である。本当はこれこそが本題であったのだが、問いを問うための下準備にはやはり、それ相応の時間がかかってしまった。後にはいずれ、伏線を回収するような仕方で、前半戦の議論にも立ち返って光を当て直してみることにしたい。
 
 
 哲学の歴史において他者という問題圏に大きく踏み込み、他者の問題が、自我からの類推としての他我の問題には決して還元され尽くしてしまうことがないことを決定的な仕方で示したのは、エマニュエル・レヴィナスである。いわば、哲学が他者を根源的な仕方で問い始めてからまだ百年も経っていないということになるわけだが、この問題圏にはおそらく、いまだ明るみにもたらされていない論点が無数に存在するに違いない。
 
 
 そのことを踏まえた上で問うてみるならば、次のようになる。レヴィナスは、他者が存在するという事実をいわば手放しで受け入れており、この「他者が存在する」を議論の余地のない前提としながら、自らの思索を展開していた。しかし、他者の存在について考え抜こうとする哲学は、少なくとも一度はこの「他者は存在する」を徹底的に疑ってみる必要があるのではないか?
 
 
 「他者が存在する」は果たして、正しいのだろうか。あるいは、それが正しいとするならば、そのことの疑いえなさの根拠は、省察するわたしに対して示されうるのだろうか。もしもそれがいかなる仕方ではあれ示されうるのであれば、それこそは省察するわたしが求めていた「絶対に疑いえないもの」に他ならないのではないか。以下、このような問題意識のもとで、省察の後半部分を展開してみることとしたい。