イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在の超絶

 
 論点:
 他者の意識は、それがもし存在するとすれば、「存在の超絶」として存在するはずである。
 
 
 まずは、問題の輪郭を見定めるところから考察を始めることにしよう。他者の意識がもし存在するとすれば、その意識もまたわたしと同じように、思考しているはずである。すなわち、その意識は何らかの仕方で見、聞き、感じているはずなのである。
 
 
 改めて注意すべきは、ある意味では唯一的なものであるとも言えるわたしの意識は、他者であるあなたの意識を直接に知ることは決して叶わないという点である。あなたは、わたしではない。わたしには、あなたが見ているものをあなたが見ているままに知ることは、いわば永遠に叶わないともいえる。
 
 
 日常の意識においてはこの点が看過されていて、「私たちは基本的には同じものを見て、同じことを考えている」は必要不可欠な常識として機能しているし、このような常識がなければ私たちの日常が成り立たないことは言うまでもない。
 
 
 しかし、常識の次元における「何でもないこと」が、実は形而上学の次元における「奇跡のような何重ものツイスト」によって成り立っているというのは、私たちの生や世界そのものを作り上げている「真理」なるものの根本特徴をなすと言えるのではないか。目下のケースについて言うならば、限りなく近いように見える他者たち、私たちを取り巻いている身近な隣人たちは、形而上学の立場から見るならば「存在の超絶」である。すなわち、決して見ることもできなければ触れることもできず、さまざまな徴標から類推することができるだけで、決して直接には知ることのできない神秘の中の神秘なのである。
 
 
 
存在の超絶 形而上学 認識の主体
 
 
 
 超絶とは、少なくとも第一義的には「(認識の主体であるわたしよりも)優れている」を意味するのではなく、むしろ「超絶して存在していること」を、すなわち、認識の主体であるわたしの意識を超えたところに存在していることを意味する。
 
 
 たとえば、わたしの目の前で、わたしよりもはるかに年齢の低い男の子が話し続けているとする。わたしには、わたし自身の経験や、わたしがこれまでに実体験や書物の中で見聞してきたことのさまざまな記憶から、彼が今何を感じているのかが手に取るようにわかるように思われる。おそらく彼は実際にも、わたしがそう思っている通りの存在なのであろう。しかし、極めて確からしいことに思われるこのような想定の真偽は、厳密に言うならばわたしには決して確かめえない。彼がいま見、聞き、考えていることは、この世界の中ではただ、彼自身にしか知りえないことに属すと言わざるをえないのである。
 
 
 哲学の営みは、私たちの日々を作り上げている日常の「異常性」にこだわり抜くことから決して切り離せない。筆者の場合、この「異常性」は何よりもまず、「存在の超絶」という理念あるいはモメントとして示された。この理念に何らかのしっかりしたものがあるならば筆者の仕事は空しいものにはならないであろうし、この理念がもし沈むならば、筆者自身の仕事もまた沈んでゆくであろう。哲学者の運命は、その哲学者自身に与えられた理念の運命と一蓮托生なのである。