イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

倫理学への導入、あるいは、現実なるものの限りない重みについて

 
 今回の省察で最も重要な部分の論証に、取りかかることとしたい。
 
 
 論点:
 省察するわたしには、他者の存在を否定することは不可能なのではあるまいか?
 
 
 今、わたしの目の前に、他者であるあなたが存在するとしてみる。悪霊による欺きのような可能性を考えるならば、あなたが本当は存在せず、すべては夢や幻にすぎないということも、少なくとも論理的には十分にありうる。
 
 
 しかし、だからと言ってわたしには、「あなたの心は存在しない」という想定に従って行為することは決してできないのではあるまいか。なぜならば、そうすることは、もしもあなたが本当は存在しているとしたならば、あなたに害を与えることをも意味しかねないからである。
 
 
 これが仮に現実ではなく、ゲームの中であるとしたならば、心を持たないキャラクターに対してわたしが何をなすとしても、他者に害を与えるわけではない。実際に人々は、それがよいことであるかどうかは別にして、ゲームの中で互いに欺き合い、暴力を振るい、殺し合い続けている。
 
 
 しかし、それがゲームではなく現実であるならば、そうしたことが許されないというのはほとんどの人の同意するところであろう。私たちは、他者に害を与えるわけにはゆかない。仮に、意識することなく他者たちに害を与えるようなことが日常のうちに存在するとしても、それにも関わらず、はっきりと意識しながら他者に害を与えることがあってはならないというのは、動くことのない私たちの行為の原則であり続けるであろう。
 
 
 
他者 悪霊 存在の耐えられない軽さ 殺人
 
 
 
 私たち人間の行為の原則:
 虚構の中ではともかく、現実世界においては、意識しながら他者に害を与えるということがあってはならない。
 
 
 今の話の本題には関わらないので、「虚構を享受する人間にとって、虚構の中での殺人は本当に無害か?」という問題を問うことは別の機会に回すことにしよう。現実の中であるならば、他者に害を与えることは、ましてや殺人の行為は許されないことについては、議論の前提にできるのではないかと思う(※)。
 
 
 ここで改めて確認しておきたいのは、私たちにとって「現実」なるものが持っていると思われる限りない重みである。ゲームの中であるならば、仮にアバターの姿をした友人を銃で撃ったとしても冗談で済むかもしれない。しかし、言うまでもなく、現実においては友人を冗談で撃つことはできない。もしもそのようなことがあったのなら、その日は、彼あるいは彼女の人生の終わりを意味する。同時に、その日はわたしのそれまでのいわゆる「まともな人生」の終わりをも、意味するであろう。
 
 
 こうしたことは、日常生活の場面においてならば誰もが十分に理解しているものと思われるが、こと形而上学や芸術の圏域に入ってくるとなると、途端に危ういものにされかねない。そこでは人々は、この現実もある意味では虚構のようなものなのではないかとか、すべては「わたし」の見ている夢なのではないかとか、あるいはまた、存在の耐えられない軽さであるとか、それぞれの流儀で勝手なことを主張し始めるのである。この現実の重みという論点に留意しつつ、私たちとしては、「他者は本当に存在するのか」という問いをさらに突き詰めてみることにしよう。
 
 
[(※)上のような議論に対しては、実践上はともかく、理論上は殺人が犯してはならないものであることを認めようとしない人もいるのではないかという疑問が浮かんでくることは、避けられないものと思われる。特に、今のこの省察が、疑いうるものはすべて疑ってみるという原則に基づいて行われるべきものであるならば、なおさらである。この疑問については、元の議論の本筋を辿り終えた後に考えてみることとしたい。]