イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「絶対に疑いえないもの」への到達

 
 もしもある経験が、夢や虚構ではなく現実のものであるならば、他者の意識の存在を認めないわけにはゆかない。もしそうであるとすれば、このことは、「現実であると思われる経験の中では、いかなる時にも他者の存在を認めないわけにはゆかない」ことを意味する。
 
 
 なぜならば、ここでは「夢だと思っていたけれど現実だった」という事故は避けなければならないからである。夢の中だから殺しても大丈夫だと思って殺したとしても、もしもそれが現実であったならば殺人者である。わたしは、人殺しになることだけは避けなければならないのである。
 
 
 このことから、前回の原則に続いて、揺らぐことのない私たちの行為の原則がもう一つ導かれてくる。
 
 
 他者の存在原則:
 少しでも現実らしいと思われるような経験においては、他者の意識が存在するという想定を疑ってはならない。
 
 
 このことから、省察するわたしは、ついにあの「絶対に疑いえないもの」に、予想もしていなかった形で到達したことを理解する。
 
 
 わたしの目の前に人間の姿をした他者であるあなたが現れるならば、わたしは、あなたの意識が存在すると信じないわけにはゆかない。なぜならば、このことを信じずに行為するならば、わたしは何らかの仕方であなたに害を与えることになりかねないからである。比喩的に言うならば、もしあなたの存在を信じずに行為し続けるならば、わたしはたとえあなたを殺したとしても、そのことに気づかないかもしれない。そうしたことを避けるためには、わたしは「他者であるあなたが存在する」を、絶対に疑いえないものとして認める必要があるように思われるのである。
 
 
 
他者の存在 殺人者 省察 他者 存在の超絶 悪霊 エマニュエル・レヴィナス 形而上学
 
 
 
 ここでは、二つの点を補足しておかなければならない。
 
 
 まず一つ目は、この原則の正しさが絶対に疑いえないからと言って、そのことではまだ、具体的な他者の存在が導かれるわけではないという点である。あなたはまだ、わたしの意識のもとに実際に現れたわけではない。あなたが一人の人間としてわたしのもとに現れた時に、わたしはあなたのことを「存在の超絶」として認めるであろう。
 
 
 二つ目は、こちらの論点の方がより重要なのではあるが、この原則の疑いえなさは、わたしがそう想定せざるをえないことの疑いえなさなのであって、厳密に言うならば「他者が存在する」ことの疑いえなさではない、という点である。
 
 
 他者であるあなたがわたしに対して現れているように見えるとしても、それが悪霊による欺きである可能性は、論理的には十分にある。しかし、たとえその可能性があるとしても、わたしにはやはり依然として「あなたが存在する」を疑うことはできない。なぜならば、先にも述べたように、「事故による殺人」だけは絶対に避けなければならないからである。
 
 
 この原則にはらまれている哲学的な含意は、この上なく深いものであるように思われる。なぜならば、この原則は実在に関する探求が倫理的な関係に対する考察と切り離しえないことを、すなわち、形而上学と倫理とが根本においては一つであることを示しているように思われるからである。このような意味合いにおいて初めて「形而上学」という言葉を用いた先人であるエマニュエル・レヴィナスに敬意を表しつつ、私たちとしては、この原則をめぐる考察をさらに進めてゆくこととしたい。