イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者への信と、哲学的ゾンビ

私たちの省察がたどり着いた「絶対に疑いえないもの」について、さらに掘り下げて考えてみることにしよう。
 
 
省察の根本洞察:
他者の意識は、わたしが人間として生き続けようとする限りは絶対に疑いえないものとして、認識の主体であるわたしを超えたところに存在するであろう。
 
 
この表現の最後の部分は、少なくともその最初のフェーズにおいては「存在するであろう」であって、「存在する」ではない。なぜならば、すでに繰り返し論じたように、他の意識が存在すること自体には懐疑をさしはさむことは可能だからである。省察は、絶対確実に知ることができるわけではないことに関して「絶対確実に知りうる」と主張することはできない。
 
 
にも関わらず、人殺しになることを避けようとするならば、「他者が存在する」というこのことを絶対に疑うことはできない。従って、わたしはここでは、他者であるあなたが存在することを信じないわけにはゆかない、ということになるのではないだろうか。
 
 
「信じる」という契機について、もう少し詳しく考えてみることにしよう。ここでは確かに「信じる」のではなく、「他者は存在しないかもしれないけれども、事故を避けるためにも一応存在すると想定しておく」だけにとどめるという選択肢も、論理上はありうる。つまり、わたしは別に他者であるあなたが存在していると信じているわけではないが、いわば、万一存在していた時のために「保険をかけておく」ような形で、存在すると想定しておくだけなのだという選択肢である。
 
 
しかし、省察するわたしはここで、自分の心の内奥に問うてみる。わたしは本当は、他者が存在するということを、すでに知っているのではないか。あるいは、存在するということを、常にすでに信じているのではないか。「目の前にいる他者には、心がないのかもしれない」というのはあえて懐疑することの結果出てきた想定であるか、あるいは、人間による作り話の中でだけそうなのであって、わたしは本当はいつでも、隣人が存在するということを、疑うことのできない事実として信じているのではないか……。
 
 
 
 省察 哲学的ゾンビ デイヴィッド・チャーマーズ 他者なき時代 根底的な信 ヴィリエ・ド・リラダン ゾンビ
 
 
 
哲学の営みにおいても、クオリアすなわち感覚質を伴うことのない他者という想定は、「哲学的ゾンビ」の概念を通してよく知られている。デイヴィッド・チャーマーズによって提起されたこの概念は、他者なき時代である現代の思想的雰囲気とこの上なく合致していることもあって、すでに哲学の世界においては人口に膾炙して久しいけれども、この概念の検討を通して見えてくるのは、私たちの日常がこうした「ゾンビたち」をめぐる抽象とは無縁なところで営まれているという根源的な事実に他ならない。
 
 
すなわち、わたしにとっては、他者であるあなたが存在するというのは、きわめて根底的な信に属する。仮に「あなたは実は、哲学的ゾンビなのではないか」と疑うとしても、それはいわば「あなたが存在する」とすでに自分が信じてしまっていることに気づいた上で、人工的な想定として、あえてゾンビなのではないかと疑うのである。
 
 
もちろん、「あなたは存在しているとずっと思っていたけれども、実は哲学的ゾンビだった」という可能性も論理的にはなくはないのであるが(「おお、ヴィリエ・ド・リラダンの悪夢、おお、わたしの愛しい人よ……。」)、そのようなケースを考えてみる場合にも、わたしには「あなたは存在する」を疑うことができないという事情については、すでに論じた。これも比喩的な言い方にはなってしまうが、あなたがゾンビではない可能性が1%でもあるのなら、わたしは、あなたがゾンビではなく心を持つ人間であるという想定に基づいて行為しなければならない。ゾンビならば一応は「害を与えても問題はない(ゾンビは、与えられた害を感ずる心を持たないがゆえに)」のかもしれないが、他でもないあなたがその「害を与えても問題のないゾンビ」であるかどうかは、わたしには決して知ることができないからである。このような状況に際しては、常に倫理的に「安全な」道を選んでおくのが、無難というものであろう。