イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

決断の瞬間

 
 他者への信:
 わたしがこの生において出会う他者たちの意識は、存在する。
 
 
 このような信は、それがなければ私たち自身の生が全く成り立たないというくらいに根底的なものである。そして、これまでの検討の結果示されつつあるのは、省察し、懐疑するわたしにとってさえも、この信の妥当性は「絶対に疑うことのできないもの」であり続けるであろうということに他ならない。
 
 
 従って、省察するわたしとしては、ここで自分自身が懐疑することの限界に到達したことを理解しつつ、次のように決断せざるをえないようである。
 
 
 省察するわたしの決断:
 わたしは他者への信を、妥当するものとして信ずる。すなわち、わたしは、「他者が存在する」という事実を、あるいは事実と思われるものを、まさしく事実であると受け止めることを決意する。
 
 
 さて、ここでの移行が論証によるものではなく、決断によるものであるという論点は、非常に重要である。
 
 
 デカルトは、形而上学的真理に関する省察が、純粋な論証のみによって行われうると信じていた。しかし、すでに見たように、彼が実際に行った論証は、第三省察における神の存在論証を経るのでなければ「コギト・エルゴ・スム」より先へは一歩も先に進むことのできないといった構造を持つものであった。
 
 
 このような「コギトの無力」に気づいていたという意味では、デカルトは正しい。彼よりも後に出てきたカント主義や現象学の企ては、彼らには彼ら自身の目的と哲学観があったことを忘れることはできないにせよ、ことこの論点に関しては、デカルトによって提起された懐疑の深淵の問題を看過していたことを指摘することもできよう。しかし、あくまでも論証という枠組みにとどまり続ける限りは、デカルトによる神の存在論証なるものの正しさを認めることができない以上、これ以上の道は絶たれていると言わざるをえないのである。
 
 
 
デカルト コギト・エルゴ・スム 省察 形而上学 コギトの無力 カント主義 現象学
 
 
 
 これに対して、私たちの省察は「コギト・エルゴ・スム」からその先の段階への移行を、論証ではなく、決断によるものとして提示する。
 
 
 コギト、すなわち、思考するわたしには、思考するわたし自身を超えて、何らかの実在を「その存在を、絶対に疑いえないもの」として認識することはできない(コギトの無力)。意識がその切り離しえない相関項として何らかの志向対象を持つとしても、その志向性そのものの妥当性を、あらゆる懐疑に抗して自らに証明してみせることは不可能なのである。
 
 
 しかし、こと他者の意識の存在という問題に関しては、わたしには、そのような「コギトの無力」にとどまり続けることはできない。なぜならば、すでに繰り返し論じたように、「わたしは、人殺しになるわけにはゆかない」からである。従ってわたしとしては、論証できないことを、論証できないままに信ずることを決断せざるをえない。このような問題に関しては、決断しないままでいることがそのまま、実践的な意味で重大な帰結をもたらしかねないがゆえにである。
 
 
 従って、若干分かりにくい表現にはなってしまうけれども、私たちの省察は普通の意味で何らかのものの実在を論証するわけではないけれども、実在なるものの実在を信じざるをえないことの必然性を論証するものであるとは言えそうである。この論点はおそらく、哲学的に見ても倫理学的に見ても、最大度の重要性を持つものなのではないかと思われる。到達した地点を一歩一歩入念に踏みしめつつ、さらに論点を掘り下げてみることにしたい。