イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

省察するわたしが、悪霊に向かって言いうること

 
 前回までで省察の行程をたどり終えたが、この行程に関してもう一つ、哲学上の帰結を確認しておくことにしよう。
 
 
 論点:
 懐疑する省察は最後の地点で、悪霊による欺きの可能性をも超えて、信を信じることの根拠を提示する。
 
 
 「わたしの目に映るすべてのことは、本当は、悪霊による欺きの中で見せられている幻にすぎないのではないか。」このような懐疑は非常に現実離れしたものではあるけれども、かえって私たちの日常の生を作り上げている信という契機を浮き彫りにするとも言えるのではないか。
 
 
 わたしが見、聞き、感じるすべてのものは、わたしが見、聞き、感じる通りに存在する。日常的態度においては、私たちはこのようなことを当然と思い、そこに目を向けることもないけれども、本当は、私たちはこのことを信じているのである。すなわち、真であるはずのものを、真であるものとして受け入れているのである。
 
 
 このような信(私たちはこのような信を根源的信と呼んだ)はほとんど無意識的なものであって、私たちにはこの信を止めることは不可能であるとすら言えるけれども、このような信を信じてよいことの根拠は、どこにあるのだろうか。このような問いを問うべきところまで突き詰めたのはこれまでのところ、後にも先にもデカルトだけであった。現代を生きている私たちには、この信を信じてよいことの根拠に関して彼が行った論証を受け入れることはできないけれども、問いを問いとして立てたということの功績は、今でも彼に帰せられるべきであると思われるのである。
 
 
 
悪霊 デカルト 根源的信 省察
 
 
  
 さて、私たちの省察は、他者の存在を受け入れなければならないことの必然性を理解することを通して、他者への信を信じることへの決断に至るものであった。今や私たちは、デカルトの言葉を用いるならば、あの悪霊に対して、「欺くならば、力の限り欺くがよい」と言うことができる。
 
 
 わたしが他者の存在を信じなければならないことの疑いえなさは、悪霊の想定を持ち出したところで揺らぐようなものではない。わたしには、人殺しになることはできない。だからこそ、わたしがこの生のうちでわたしと同じような人間の姿をした他者に出会う限りは、わたしはその他者を、心を持つ存在として認めなければならないのである。
 
 
 確かに、「この生は本当はすべて幻であって、わたしのこの他者への信は空しいものだった」ということも、論理的にはありうる。しかし、その場合にもわたしは、人間としてなすべきことを意志し、それを果たしはしたのである。私たち人間に求められているのは絶対的に正しいことをなすことではなく(言うまでもなく、そうしたことは人間存在に与えられている条件からして不可能である)、自らの行為の正しさを絶えず疑い続けながら、正しいと思われる義務だけは果たすことである。今の場合で言えば、それは、他者を他者として認めること、他者にもわたしと同じような「わたしはある」の経験が存在することを認めることに他ならないであろう。
 
 
 従って、繰り返しにはなってしまうけれども、省察するわたしは、あの悪霊に対しては「欺くならば、力の限り欺くがよい」と言うことができる。たとえ悪霊が欺いているとしても、わたしは、わたしにとって必要と思われることをする。しかし言うまでもなく、本当は、悪霊はこの点においてはわたしを欺いてなどいないであろう。他者は、存在するであろう。省察を行ってきた私たちにはこのことの真実性が、以前にもまして疑いえないものとして、まさしく「(倫理的な意味において)絶対に疑うことのできないこと」の真実性として感じられるようになっている。哲学の営みはある意味では、真実であるものの真実性をより深く経験し、そこに向かってますます根源的な仕方で引き入れられてゆくということに尽きるのである。