イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ハイデッガー『存在と時間』を読む

 
 今回の記事から始まる探求で試みてみたいのは、二十世紀の哲学の歴史を筆者なりの仕方で振り返ることである。
 
 
 時が経つにつれて、筆者の哲学の探求はますます「存在の超絶」という理念に収斂するようになってきている。この理念自体は、哲学の歴史との対話のうちで練り上げきたものであるつもりなのだけれども、今回の探求ではこの理念がなぜ出てこなければならないのか、その必然性を、二十世紀の哲学の歴史と向き合う中で論じてみたいのである。
 
 
 この課題に取り組むにあたっては、次の二つの著書を読み解いてみることにしたい。
 
 
 1974年刊  エマニュエル・レヴィナス『存在するとは別の仕方で』
 
 
 二冊の本で二十世紀の哲学史を振り返るというのは非常に冒険的というよりも、率直に言って、どう見ても無茶であるようにも見える。
 
 
 しかし、筆者の考えるところでは、二十世紀の哲学が問題とした最も重要な論点を一つだけ挙げよと言われるならば、おそらくは、マルティン・ハイデッガーエマニュエル・レヴィナスの間で行われた哲学的な対決をおいては他にないであろう。この対決のうちには哲学の歴史のみならず、二十世紀の人類が経験しなければならなかった歴史の痕跡もまた、拭いえない形で刻まれている。そして、この対決の内実を追うことはそのまま、今のこの時代を生きている私たちが哲学において何を問題にしなければならないのか、その点をも浮き彫りにするはずなのである。
 
 
 
 存在の超絶 マルティン・ハイデッガー エマニュエル・レヴィナス 存在と時間 存在するとは別の仕方で 全体性と無限
 
 
 
 先に大まかな見取りだけを述べておくならば、筆者は上に挙げた二冊の本『存在と時間』『存在するとは別の仕方で』について、後者が前者の後継者にして、最も熾烈な反駁にもなっているという仕方で論じるつもりである。
 
 
 1974年に出版されたされたエマニュエル・レヴィナスの『存在するとは別の仕方で』は、老年を迎えたレヴィナスの思索の完成を示す決定的な著作である。
 
 
 おそらくは、体系性や論じられている主題の広範さという点においては、1961年刊の『全体性と無限』の方をこそレヴィナスの代表作として推す人は少なくないであろう。『存在するとは別の仕方で』における思索は極度に切り詰められており、書いていた時期の当人も感じていたようであるが、たった一つのことをめぐって延々と論じ続けるような相を呈している感のあることは否定できない。
 
 
 それにも関わらず、この著作のうちで論じられているそのたった一つの論点のうちには、二十世紀の人間が思索することのうちで何を掴み取らなければならなかったのか、その最も重要な成果が凝縮されている。レヴィナスはいわばこの論点のうちに、ハイデッガーの思索との全対決を収斂させたのである。私たちがたどり着きたいのはその地点に他ならないのであるが、そこに向かう前にはやはり、ハイデッガーその人の『存在と時間』が何を問題としていたのか、その点を根本から考え直してみるのでなければならない。私たちの読解は、二十世紀が生んだ最も偉大な書物の一つにして最大の問題作でもあるこの本から始められることになるだろう。