「『存在する』という語で、私たちはそもそもなにを意味しているのか。この問いに対して、こんにち私たちはなんらかの答えをもっているだろうか。まったくもっていない。だからこそ、存在の意味への問いをあらためて設定することが必要なのである。」
存在するということの意味が、覆い隠されてしまっている。これが、ハイデッガーが哲学者として公に書き言葉での活動を開始するにあたって、同時代の哲学者たちに突きつけた時代の診断であった。
存在するという言葉はおよそ何に対してでも使えるから、最も普遍的で、その意味を定義することさえもできず、きわめて当たり前のものであるように思われている。私たちはこの言葉の前をいわば通り過ぎてしまっており、そこに注意を向けることもほとんどない。私たちは、存在するということのうちに何らかの問題が含まれていようとは、考えてみようとさえもしていないのだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。むしろ、哲学者たちははるか以前に行われた「存在するということ」をめぐる探求を、あの「真実在をめぐる巨人の戦い」のことを忘却しているだけなのではないか。かつて、息も詰まるほどの思惟の戦いによって掴みとられたはずのものが今は忘れ去られているのだとすれば、哲学のなすべきことは、その問いを改めて設定し直すこと以外ではありえないのではないか……。
もちろん、ハイデッガーがそのように問いかける時、彼は一定の答えをすでに持っている。存在するという言葉の本当の意味はすでに自身の探求にとって明かされ始めていると、彼は考えている。存在することの意味は、時間から解明されるべきなのである。『存在と時間』はかくして、哲学者たちが忘却している「巨人の戦い」を再開することの必要性を宣言しつつ、その探求を開始することになる。
ハイデッガーの『存在と時間』が同時代の哲学にもたらした最大の衝撃は何よりも、長らく見過ごされていた「存在」の問題を、再び哲学者たちの目の前に、それこそ電撃のように閃かせた点にあったと言ってよいだろう。
この衝撃は、少なくともその最初の時点においてはおそらく、理屈を超えたものであった。「存在」の問題が哲学的に見て重要なものであることについては、後からいくらでも説明を付け加えることは確かにできるけれども、そのことは、まるで巨大な隕石のようにして人間に襲いかかってくる衝撃に対しては、あくまでも補足的なものでしかありえない。しかるべき仕方で整えられた際には、「ある」という言葉は人間を撃つ。彼、あるいは彼女の生きることの探求がそれ以前と以後とでは同じではありえないような仕方で、その人を撃つのである。
若き日のハイデッガーが熱をあげて取り組んだものは、そのほとんどが同時代の人々と共有するものであった。ドイツロマン派の思想、生の哲学、キルケゴールやドストエフスキーといった例外的な冒険者たちが残した預言のような著作群、そして、フッサールの現象学。それらは確かに、ヨーロッパの哲学と文学が一切の妥協をすることなく行い続けた探求の精華とも言うべきものではあったけれども、これらものには何も彼だけではなく、他の人々も同様に親しみ、打ち込んではいたのである。
しかし、ただハイデッガーにあってのみ、これらのすべてのものが渦を巻くようにして「存在の意味への問い」という一点に収斂し、決定的な仕方で結晶した。時代が、哲学が抱えている問いのすべてが、「ある」を啓示する。それは、危うさを抱えもった一人の俊英が、哲学そのものの運命の呼び声を聞き取ったとでもいうほかない出来事であった。