『存在と時間』の出発点:
私たち人間は、常にすでに、何らかの存在了解のうちで生きている。
了解とは理解していること、分かっていることを意味する。従って、存在了解とは、存在するということについて何らかのことをすでに理解していることを言うのである。
たとえば、わたしが野原を歩いていて、そこに立っている一本の大きな木に出会ったとする。わたしは、葉を風で揺らしているその梢を見ながら、「あそこに一本の樫の木がある」と口にする。
木が「ある」と言葉にしている以上、わたしは「ある」という言葉について、そして、この野原にあの一本の樫の木が存在していることについて、何かしらのことを理解しているはずなのである。というよりも、そのようなことを「理解している」とわざわざ考えるのも馬鹿らしいというくらいに、わたしは「ある」の当たり前さのうちで生きていると言ってよいかもしれない。
「ある」は哲学にとっての、そして、人間にとっての最大の謎であるはずなのに、私たちは、その謎をこともなげに通り過ぎてしまった上で、それを当たり前のことであるとすら思ってしまっている。しかしとにかく、私たち人間は、「ある」ということについての何らかの了解を持ってはいるのである。「存在するとは何を意味するのか」という緊急の問いを問うためには、何よりもまず、人間が「ある」を「ある」として理解しているというこの事実から出発するべきなのではないか……。
言うまでもなく、日常の場面で誰かにこのような言葉をかけるとすれば、ほとんど相手にされずに終わることは間違いないであろう。
ところが、成せばなるというか、無理が通れば道理が引っ込むというか、あるいは勝てば官軍というか、ここが哲学史の実に面白いところで、ハイデッガーが『存在と時間』においてこのような問いかけをした数年の後には、ドイツ中のむさ苦しい(?)教授たちや若い学生たちがこぞって「果たして、存在するとはいかなることか……」と大真面目に考え始めるという、驚くべき事態が現出した。もちろん、この問いを提出したハイデッガーの群を抜いた実力と問いの深さあっての話ではあるけれども、若干、もはや何でも言った者勝ちの世界なのではないかという気がしないでもないエピソードである。
ともあれ、ここで重要なのは、存在の問題が人間という存在者との関わりにおいて問われたということである。存在の問いは、意識によって問われるのでも、主観によって問われるのでもなく、自分自身も存在者であるところの人間なる存在者によって問われる。この人間のことをハイデッガーは「現存在」と呼んで、『存在と時間』においては現存在の存在了解をひたすら問題にしてゆくのであるが、この「存在と人間」という根本の構図は、ハイデッガーが晩年に至るまで手放すことなく保ち続けたものであった。
「存在と人間」。この構図もまたこれはこれで、正統といえば「ど」が付くほどに正統とも言える問題設定ではあるが、哲学の仕事で最も大きな実力を必要とするのは、初学者には一体なぜそんな当たり前なことを言い出すのかさっぱりわからないというくらいに「当たり前」な問題設定を、これまで誰も問うていなかった未曾有の問いの枠組みとして、年季の入った同業者たちに提出することである。ビギナーにとっては意味不明でも、見る目を持った同業者たちは、そこで何が行われているのかを即座に理解する。かくして、『存在と時間』の序論は哲学史の中でも稀に見る大勝負の記録として、後代の哲学者たちにまで記憶されることとなったのである。