イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

実存、その栄光と悲惨

 
 「人間を、人間として根源のところから問い直す。」正統の路線を貫き通すことが、突き抜けて、秩序の未曾有の改革に至ってしまうことがありうる。ある意味では、哲学における王道の中の王道とも言える問題設定のうちに、ハイデッガーは爆弾のような概念を忍び込ませていた。それが、実存の概念である。
 
 
 『存在と時間』の根本命題:
 現存在、すなわち人間は、実存する存在者である。
 
 
 机や木や家のような存在者であれば、それが「何であるか」を言うのは難しくない。たとえば、机であれば、「字を書いたり、本を読んだり、作業をしたりするために用いる台」といったようにである。存在者の「何であるか」すなわち存在者の本質は、人間以外の場合にはあらかじめ決定されていると言えそうである。
 
 
 ところが、人間(「現存在」)という存在者にはこのことが全く当てはまらないと、ハイデッガーは言う。「人間とは何か」という問いに対して「人間とは〜である」という形で答えることは、全くできない。なぜなら、人間とは、人間がその時々にそうであるような、その人間自身の「存在」そのものでしかありえないからである。
 
 
 「わたしとは誰か」という問いの答えは、その時々のわたしの存在そのものからしか答えることができない。わたしはいわゆる「平均的な日常」(ハイデッガーは『存在と時間』において、この「平均的な日常」なるものの構造を分析した)を生き続けることもできるし、英雄として生きることも、殺人者になることさえも可能である。人間は、栄光と悲惨の間でいわば宙吊りになっている。人間には、そのどちらを選択することも可能なのである。
 
 
 人間は、自分自身の存在を常に何らかの仕方で理解し、自分自身の存在に関わり続けている。この存在それ自身のことを、ハイデッガーは『存在と時間』において実存と呼んだ。人間が何であるかという問いは、そのつどその人間自身の実存によって答えられなければならない。これが、『存在と時間』の叙述のすべてを貫いて反復されつづけることになる、この本の根本命題に他ならない。
 
 
 
ハイデッガー 実存 現存在 存在者 存在と時間 平均的な日常
 
 
 
 「実存の問いはつねに、実存することそのものによってのみ決着がつけられなければならない。」『存在と時間』第四節におけるハイデッガーのこの言葉は、二十世紀という一つの時代にすでに幕が降ろされた今になって振り返ってみると、ある非常な重みをもって響くことは否定できない。
 
 
 ハイデッガーは、第一次世界大戦第二次世界大戦の間、いわゆる戦間期と呼ばれる時代に、この本を出版した。彼は自分と同年代の若者たちが、人類が未だ体験したことがないというほどの規模の戦争のうちで次々に死んでゆくのを目にしながら、自らの哲学を練り上げていったのである。
 
 
 『存在と時間』の以前にも以後にも、二十世紀の人間たちは殺し合いを続けた。人間は機関銃で騎兵隊を撃ち殺し、塹壕で地獄を味わい、太平洋を血の海に変え、強制収容所で何百万人という人間を殺し尽くし、同じ人間が住んでいる街に核弾頭を落とした。「現存在とは自らの実存にほかならない」というテーゼを、二十世紀の人間たちは、いわば果てることのない暴力の連鎖によって実証したのである。
 
 
 その一方では、こうしたことすべてとは別の仕方で生きることに命を捧げた人々もいる。いずれにせよ、ここで重要であるのは、ハイデッガーが哲学のうちに持ち込んだ「現存在とは、自らの実存にほかならない」というテーゼが、哲学が抱き続けてきた伝統的な人間観に対する根底からの異議申し立てを含んでいたという事実である。この異議申し立ては、たとえば「人間とは理性的動物である」といったような本質の前もっての措定を許さない。そのつど自分自身の存在を理解し、それに関わり、選び取るという側面を「実存」の概念によって際立たせることによって、ハイデッガーは、人間存在を一つの巨大な謎あるいは深淵として浮かび上がらせたのである。哲学は、もし哲学自身が「人間とは何か」という問いを問うという自らの務めを果たそうと望むのであれば、彼が引き起こしたこの出来事の衝撃を根底から受け止めなおすことを免れるわけにはゆかないだろう。