イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「決断の瞬間における狂気についての学」:実存論的分析論の深淵

 
 論点:
 実存の概念は、それが学問になるのかならないのかが問題とされうるような、一種の限界概念である。
 
 
 現存在、すなわち人間の存在には「各自性」という性格もあると、ハイデッガーは指摘する。人間が選び取るその時々の存在のあり方は、「そのつど私のもの」である。人間は他の誰でもない、自分自身の選び取った存在を生きるのであって、そのようなものとして人間は、「これこそ私の生き方だ」と言えるような生を掴んだり(本来性)、それを掴み損ねたりしている(非本来性)。
 
 
 ここで考えられているのは、ほとんど危機的とも言えるほどの仕方でたえず揺れ動き続けている、人間存在の剥き出しの姿である。『存在と時間』のハイデッガーにとって、一人一人の人間とは、「この人は〜だ」といった本質の措定を決して許さず、たえずその人自身であるか、それともそうでないか、自分自身であろうと意欲しているか、それとも意欲していないかという二者択一を迫られている、一個の巨大な謎以外の何物でもないのである。
 
 
 非常に極端な人間観である。それに、果てることのない二者択一の連続といったような狂気のごとき経験について、はたして学問の言葉で語ることができるのだろうか。ところが、『存在と時間』においてハイデッガーが進んだ道は、このような二者択一の経験(「汝は汝自身であるか、それともそうでないか?」)をこそ人間の人間たるゆえんとしつつ、この経験を根幹とした人間論(「現存在の実存論的分析論」)を学として、それも、学の中での最高の学として打ち立てようとするものであった。この学はいわば、その極点においては「決断の瞬間における狂気についての学」ともならざるをえないような学である。まことに、途方もない企てであると言わざるをえない。
 
 
 
 ハイデッガー 現存在 存在と時間 本来性 キルケゴール ドストエフスキー 危機の時代
 
 
 
 哲学の古典としての『存在と時間』には、互いに拮抗しあっている二つの傾向が存在している。
 
 
 一方でこの本は、学問であり続けようとするその意志において、一貫したものを保ち続けている。書いた当人も認めていたように、この本の叙述は、少なくともその外見においては無味乾燥としたものである。「学術書という体裁をあくまでも守り続けている、非常に難しそうな本」、それが『存在と時間』に対して多くの人々が抱く第一印象であろう。
 
 
 ところが、この本はその一方で、これまで誰もそれが学問になるとは思いつきさえもしなかったような生の深淵に大胆に飛び込んでゆくような、冒険的な傾向、もっと言えば、危機的な傾向をも備えている。生きるのか、死ぬのか。本来の生を生きることに向かって呼びかけてくる呼び声に対して、耳を傾けるのか、傾けないのか。キルケゴールドストエフスキーといった人々が垣間見たような生の深淵、人を狂わせるようなその「裂け開け」の構造についての学というものが、ありうるのではないのか。
 
 
 学問の領域にとどまり続けようとするストイックさと、それをたえず食い破ってゆかざるをえない生の衝迫。この二つの資質を余すところなく兼ね備えていたという意味では、ハイデッガーはさながら、危機の時代としての戦間期の申し子とも言える人物であった。実存の概念が抱え込んでいる深淵については、詳しくは『存在と時間』後半部分の展開に譲らざるをえないけれども、この本をめぐる私たちの読解もまた、彼が書き残した論理の跡を丹念にたどりつつ、彼の垣間見た人間存在の深淵の姿を見定めるよう試みることになるだろう。