イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

探求の見取り図:本全体の流れをつかむ

 
 本論の内容に入ってゆくにあたって、まずは大まかな見取り図を得ておくことにしたい。今回の読解では、筆者はハイデッガー自身による本の構成に大まかに言えば重なるような形で、『存在と時間』を二つの部分に分けて論じてゆく予定である。
 
 
 ①読解の前半では、「日常性における人間とは、いかなる存在者であるのか」という観点のもとに、人間という存在者のあり方を探る。
 
 
 ハイデッガーは私たち人間の日常のあり方を分析しながら、現存在、すなわち人間の「存在体制」なるものを定式化するのであるが、この定式化については、少なくともその呼び名についてはよく知られている。彼は、現存在の存在体制とは「世界内存在」である、と主張するのである。この「世界内存在」についてハイデッガーは、次のような三つの視点から順に論じてゆく。
 
⑴ 世界とは何か?
⑵世界内存在しているのは誰か?
⑶内存在とは何か?
 
 これらのことを論じ終えたのちに、ハイデッガーはそれまで論じてきたことに基づいて、自らの真理論を展開する。ここがいわば、前半戦のクライマックスにあたる部分である。『存在と時間』のハイデッガーにとって、真理とは何を意味するのか。そして、「現存在は真理のうちにある」というテーゼは、一体何を主張するものなのか。この点を明らかにすることができたら、そこで読解の前半は終了することになるだろう。ただし、この読解では叙述と内容の都合上、ハイデッガー本人は「⑴→⑵→⑶→真理論」と進んでゆくところを、私たちは「⑴→⑶→真理論」と進み、⑵は後半の方に回すこととしたい。
 
 
 
ハイデッガー 世界内存在 存在と時間 本来性 死への先駆 良心の呼び声 平均的日常性
 
 
 
 ②読解の後半では、「本来性における人間とは、いかなる存在者であるのか」という問いが問われるのであるが、ここで一つの論点を強調しておくことにしたい。それは、1927年の当時にあっては、哲学の営みとしてこのような問いかけをすること自体が何か度外れな、もっと言えば、秩序壊乱的な企てであったという点である。
 
 
 前半の「日常性における人間を探る」という問題設定も、それはそれですでに革新的なものではあった。おそらくは、『存在と時間』前半部の内容を世に問うだけでも、哲学界の内部からはそれなりの反響があったことであろう。しかしながら、ハイデッガーという人は、およそ日常性なるものの枠内で踏みとどまるような哲学者ではなかった。彼はいわば、『存在と時間』の前半部で当時の哲学の枠組みを「日常性における人間の人間性についての探求」として解釈しなおし、後半部ではその枠組みそのものを「ぶち抜いた」のである。
 
 
 後半部で論じられる死や良心といった主題は、当時の講壇哲学の枠内ではほとんど論じられることのなかったものである。日常性から隔絶したところで人間存在のあり方を根源から問い直しつつ、「死への先駆」や「良心の呼び声」といった何やら危うげな概念を駆使した上で(それにしても、「呼び声」とはかなりのパワーワードである)、こうした極限概念を通してでなければ人間という存在者の存在の意味は決して解明されない、人間の存在の意味とは時間性以外の何物でもないのだと迫る『存在と時間』後半部の展開は、当時の読者たちにとってはもはや唖然というほかなかったことであろう。私たちが最終的にたどり着きたいのもその地点なのであるが、そのためには、それに必要な準備を整えなければならない。私たちの読解は、ハイデッガーと共に、まずは「平均的日常性における人間とは何か」という問いを問うことになるだろう。