イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

道具の目立たなさ:日常における「物」への問い

 
 私たちがふだんはっきりと気づくことのないままにその内を生きている「世界」とは、いったい何なのだろうか。この問いを問うにあたってハイデッガーが打ち出すテーゼとは、次のようなものである。
 
 
 『存在と時間』における世界論の根本テーゼ:
 世界が世界であることは、私たちの日常を形づくっている、さまざまな物のあり方を問うことを通して見出される。
 
 
 机や椅子、窓やドア、あるいは、床や街路。私たちの日常の生は、こうしたさまざまなものとの関わりのうちで成り立っている。
 
 
 ハイデッガーによれば、私たちがこれらのものとの関わりのうちで生活してゆくことができるのは、私たち人間が世界内存在しているからである。世界内存在していない存在者は、コップで水を飲んだり、靴をはいて外を歩くこともできない。物は、世界のうちに存在することによってはじめて物でありうるというのが、ハイデッガーの主張なのである。
 
 
 それでは、こうした物たちは、いったいどのようなあり方をしているのだろうか。物の「あり方」を問うとは、哲学の言葉で言うならば、そのものの「存在」を問うことを意味する。物は物として、どのような存在の仕方をしているのだろう。物への問いはかくして、存在の意味への問いを問うことに、真っ直ぐにつながってもいるということになる。
 
 
 『存在と時間』のハイデッガーは私たちの日常を作り上げている物たちのことを「道具」と呼んで、そのあり方を分析しようと試みている。道具が道具として用いられる時には、その道具はどのようなあり方をしているのだろうか。この問いを問う中でこそ、私たちがたどり着こうと試みている「世界」なるものへの通路も見出されるはずなのである。
 
 
 
ハイデッガー 存在と時間 道具 カーテン コップ
 
 
 
 ただし、このような探求には、ある原理的な困難が付きまとっているということも確かであるように思われる。なぜならば、私たちが何の気なしに用いることで生活している「道具」なるものは、その本質からして目立たないことを特徴としているものに他ならないからだ。
 
 
 目を覚まして起き上がったわたしが窓の方に歩いていって、カーテンを引くとする。その時、目に入ってくるのは五月の朝の光であって、手で引いているカーテンではない。
 
 
 カーテンはいわば、射し込んでくる光に身を譲って、自らは目立たなさのうちに引き退いてしまっているのである。ほとんどの場合、わたしは自分がカーテンという道具を使ったことを、はっきりと意識することはないだろう。私たちが求めているのは窓を通して流れ込んでくる日の光であって、カーテンそのものではない。私たちが飲むのはコップの中の水なのであって、コップそのものではないのである。
 
 
 ハイデッガーが指摘するように、このことは、私たちが用いているあらゆる道具について当てはまることだと言ってよい。道具は何かの具合でたまたま目立たないというのではなく、むしろ、目立たないまま用いられるのが道具なのである。私たちが世界のうちで生きながら、大抵は「世界」なるものの存在にそれとして気づくことがないことにも、深い理由がありそうである。世界に至る手がかりであるところの「道具=日常におけるさまざまな物たち」がそもそも、目立たず控えめに存在することを本質としているのであってみれば……。
 
 
 かくして、道具についての分析は、ふだん意識すらされていないものを意識して考えてみなければならないという困難を背負うことになるだろう。ところが、ハイデッガーはその「ふだん意識されることのない道具」が意識されざるをえなくなるような特別なケースがあると指摘して、それを世界の世界性を探る手がかりとして用いようとするのだ。私たちも具体的な日常の場面を引き続き参照しながら、その論理を追ってみることにしよう。