イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

目くばりの次元:ハイデッガーの世界論が目指すもの

 
 A子さんの周囲世界は、ふだん使っているスマートフォンの電源が切れることによって、かえって閃くこととなった(前回の記事参照)。しかし、このように目立つわけではないとしても、世界という現象への手がかりは、私たちの日常のうちにも常に存在し続けているのではないだろうか。
 
 
 たとえば、一人暮らしをしている人が夜中、最寄り駅から自分の部屋まで帰る途中に、「ああ、そういえば牛乳がなかった」と思って、方向を変えて、家の近くのコンビニに向かって歩き出すとする。
 
 
 その場合、彼あるいは彼女は、さまざまなことをほんの一瞬のうちに見て取っているのである。すなわち、冷蔵庫の中には牛乳がなかったこと、コンビニには紙パックの牛乳が売っていること、財布の中にはそれを買うだけのお金が入っていること、等々。これらのことと同時に、彼あるいは彼女の頭の中には、「明日も仕事が早いから早く寝なくては」といったことも、思い浮かんでいるかもしれない。
 
 
 このように、私たち人間は自分の身の回りを取り巻いているさまざまな道具の連関を、常に見て取りながら生活している。ハイデッガーはこのように日々刻々と行われている「見てとること」の働きに着目しつつ、それを「目くばり」と呼ぶのである。
 
 
 この「目くばり」は理論的なものでは全くなくて、むしろ、目くばりをしている本人でさえも自分でははっきりと気づくことのないままに、常に行われ続けているといった類のものである。当然、多くの場合には言葉にもされていないし、目くばりを行っている当の私たち人間の方でもそんな当たり前のことが重要な哲学的論点になりうるなどとは思っていなかったので、過去の哲学者たちも、こうしたことをわざわざ論じようとはしなかった。これを「目くばり」として概念化して、これまでの視覚論の膨大な蓄積と対決させたことは、『存在と時間』におけるハイデッガーの功績の一つと言ってよいだろう。
 
 
 
ハイデッガー 目くばり 存在と時間 ファミリーマート
 
 
 
 「使用し操作する交渉は、とはいえ視覚を欠いたものではない。そのような交渉には、それに固有な〈見ることのしかた〉があるのであって、操作することはそれによってみちびかれ、操作することに特種的な手堅さが与えられる。」(『存在と時間』第15節より)
 
 
 重要であるのは、私たちが日常のうちで関わるさまざまな物(=道具)はまさにこうした〈見ることのしかた〉、すなわち目くばりのうちでこそ出会われるのであって、目くばりを抜きにした「物そのもの」というのは後から理論的に見て取られたものの見方でしかない、という点である。
 
 
 先ほどの同じ人が、到着したファミリーマートの保冷棚で売っている紙パックの牛乳を目にしつつ、それを手で取り上げるとする。
 
 
 その場合、理論的に物事を考える態度でもって「はたして、この紙パックとはいかなる存在者であるのか……」と問うとしても、はかばかしい答えは得られないであろう。紙パックの牛乳は「物体」とか、「属性を持った事物」とかである前に、「いま家の冷蔵庫の中にない、だからここで買わなくてはいけない、袋をもらわなくてもカバンの中に入れて持って帰れる、まさにその低脂肪乳」なのである。日常のうちで出会われる物の「存在」とは、まさにそうしたものである。物、あるいは道具は、目くばりのうちで出会われるあり方をしているのであって、それ以外のあり方(=「存在」の仕方)をしているわけではないのである。
 
 
 そういうわけで、こと世界論に関する限りは、『存在と時間』におけるハイデッガーの存在の哲学の成果は、かなり慎ましいものであると言ってよい。すなわち、理論的に仰々しい方向に暴走してゆくこともある哲学や、日常的なものの見方なんてまやかしで、本当は物体があるだけと考えたりするような俗流唯物論といったさまざまな対抗者たちに対して、ごく当たり前のものの見方にその正当性を与えなおすといったものである。一見すると、特別な成果が上がっているわけではないようにも思えるが、そのことの意味は、本当は決して小さなものではないのかもしれない。このような思惟の仕事は、ふだん何気なく生きている日常を作り上げているものの限りない深みに立ち帰るようにと、私たちに呼びかけるものであるとも言えるからである。