イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

道具全体性、あるいは、生活自身がそれであるところの神秘について

 
 現存在、すなわち人間と道具との関わりについて、もう少し掘り下げて考えてみることにしよう。
 
 
 論点:
 道具を用いるという経験には、必ずその時々の状況を構成する全体性という契機が関わってくる。
 
 
 たとえばわたしが、早朝、部屋の中で、ノートに文章を書きつけるとする。
 
 
 その場合、わたしは手にしている鉛筆という道具を、単独で使うわけではない。鉛筆は、必ずそれを使って文字を書きつける何らかの紙を必要としている。この場合はノートであるが、ノートの方はノートで、鉛筆やペン、万年筆といった筆記用具がなければ、読むことはできても書くことができないことは言うまでもない。
 
 
 さらには、立ちながら書くこともできないので、そこには机と椅子が必要であることも確かである。時刻のせいで日の光も十分でないならば、電気をつけることも必要になってくることだろう。
 
 
 このように、部屋でものを書くという行為一つとってみても、そこには極めて複雑に絡みあっている一つの道具全体が関わってくることがわかる。しかも、こうしたことすべては、住むための道具である部屋という場の中で行われているのである。ハイデッガーはこうしたことを記述するために「道具全体性」とか「適所全体性」といった用語を用いているけれども、重要なことは、私たちが行っている日常のどんなささいな行為であっても、その時々の状況を形づくる全体性との関わりなしには決して成り立たないという点である。私たちは、複雑に絡みあう物と物とのつながり、道具と道具とが織りなす全体性のうちで常にすでに生活してしまっているのである。
 
 
 
道具 ハイデッガー 全体性 存在と時間 生活の詩学
 
「個々の道具に先だって、そのつどすでに一個の道具全体性が覆いをとって発見されているのである。」(『存在と時間』第15節より)
 
 
 ここで問題になっている全体性という概念は、論理的に考えてみることですぐに納得できるような類のものではない。むしろ事態は、自分自身の経験を振り返りながら、「確かにここでも、またあそこでも、常にすでに全体性の契機が関わってきてしまっている」と考え続けていると、だんだんと深いところから納得が生まれてくる、といったような構造になっているといえる。
 
 
 わたしはスマートフォンで、着信したメールをチェックしている。しかし、わたしはそのメールのチェックを、「歩きスマホは望ましいことではない」と何となく意識しつつ、電車の中で、それも座席に座りながら行っているのである。電車の方は電車で、線路という別の道具の上を走りながら、わたしの学校あるいは仕事場のある街に向かっている。わたしの生活が行われる、一つの周囲世界の全体がそこにある。
 
 
 わたしが生活しているわたし自身の世界、ふだんはその複雑さに気づくことなく常にすでにその中を生きてしまっているところのこの世界は、本当は、どんな芸術であっても描き尽くすことのできないような緊密な構成と、言い表しがたい美とを備えている。食器棚から出してきたマグカップで温かいコーヒーを飲むことのうちにさえも、音楽あるいは詩がある。すべてのことにそのつど心を打たれていては生活してゆくこともできないので、こうしたことのうちに宿っている驚くべき秩序の存在に気づかないことが、私たちの生活を成り立たせる条件になっているけれども、現象学のまなざしは、自分自身の方から自らを示してくるものに忠実であろうとする知性の努力によって、生活を作り上げている神秘を、むしろ、生活自身がそれであるところの神秘を見えるようにしようと試みる。この意味において、私たちは、『存在と時間』の世界論において展開されているのは一つの「生活の詩学」であると言うこともできるであろう。