イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

根本テーゼ「人間は実存する存在者である」:物が存在するということの意味を通して

 
 前回の論点を再確認するところから、始めることにしよう。
 
 
 すでに何度か取り上げてきたので、スマートフォンの例を続けることにする。スマートフォンの充電用コンセントそれ自体は、それを使う人間との間に直接の関係を取り結ぶわけではない(=コンセント単体で、何かができるというわけではない)。しかし、道具としての充電用コンセントは電源とスマートフォンにつないで、充電すること「において役に立つ」。そして、コンセントを介して電気を蓄えたスマートフォンの方は、電話をする、あるいは情報を得るという、人間の存在の可能性へとダイレクトにつながっているのである。
 
 
 私たちの日常生活を形づくっている物たちはこのように、その連関をたどってゆくと、最終的には現存在、すなわち人間の存在可能へと行き着く。この論点は『存在と時間』全体の読解にとって非常に重要なものなので、ハイデッガー自身の言葉を見ておくことにしよう。
 
 
 「適所全体性そのものは、最終的に或る〈なにのために〉へと立ちかえってゆくけれども、そのもとではどのような適所性も、もはやえられることがない。この〈なにのために〉自身は、なんらかの世界の内部で、手もとにあるものという存在のしかたをともなう存在者ではない。むしろ、その存在が世界内存在として規定されている存在者、つまりその存在体制に世界性そのものが帰属している存在者[=現存在としての人間]なのである。」(『存在と時間』第18節より)
 
 
 強調しておかなければならないのは、このことはたまたまそうなっているのではなくて、むしろ、人間の世界が世界であるためには欠かすことのできない、世界の「可能性の条件」をすらなしているということである。物たちはすべて、文字通り「すべて」、最終的には人間の存在可能との関わりへと行き着く。これは、改めて考えてみるならば、驚くべきことではないだろうか。
 
 
 そして私たちは、物たちがすべて最終的には人間の存在可能に奉仕するというこの事実のうちに、人間という存在者の、究極的ともいえる本質を見てとることができるのである。すなわち、人間とは自らの存在において、自らの存在可能へと関わりつつあるその存在自身が問題であるような存在者である。人間が道具との関わりの間に取り結ぶ関係のうちには、人間が実存する存在者であるという事実の、消しがたい徴が刻まれているのである。
 
 
 
存在と時間 可能性 適所全体性 現存在 ハイデッガー
 
 
 
 すぐれた哲学の書物は必ず、その本全体を貫く一つの哲学的直観に突き動かされるようにして書かれている。『存在と時間』におけるハイデッガーの世界論もまた、「現存在は実存する」という、この書物の根本テーゼとの連関のうちで読まれなければならない。
 
 
 もちろん、上に述べたようなことを、日常生活を生きている私たち自身がはっきりと意識しているというわけではないことは確かである。このことは、はっきりと口に出して言われる必要すらないほどに生活のすみずみにまで浸透している、私たちの生のいわば根本の原則をなすものである。私たち人間は、自分たちでも気づくことのないままに、「人間は実存する存在者である」という命題を日々実証しながら生きているのだ。
 
 
 この事実はしかし、繰り返しにはなってしまうが「はっきりと認識されている」わけではないのであって、哲学の役割とはここではまさに、これまでずっとはっきりとは認識されずにきたことを、今こそ明晰な了解のうちにもたらすことに存する。それは、生きることを取り戻すことである。まるで世界そのものが新しく生まれ直すかのような驚きに打たれながら、生きることの手触りを今こそはじめて学び知ること、それが、人間が哲学をすることの意味である。
 
 
 「道具が形づくる連関としての適所全体性は、最終的には必ず現存在の存在可能に行き着く。」人間の存在可能を存在可能として存在させること、人間が世界のうちで存在するのを助けることが、物が物として存在することの意味なのである。物は、人間が人間になることを目立たないところから支えているのだ。日常を作り上げているものの奥深い構造を明るみにもたらしたという意味で、『存在と時間』の世界論が成しとげた功績はまさしく不滅のものであるといえるだろう。