イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ア・プリオリを生きるとは:ハイデッガーと超越論哲学

 
 ハイデッガーとともに、日常における物の存在を問う私たちの探求は、その最内奥に達しつつあるようである。
 
 
 物あるいは道具は、それらのものが作り上げている壮大な連関であるところの、適所全体性のうちで出会われる。この適所全体性こそが、世界が世界であることを証しする特徴なのであって、この全体性のうちでこそ、私は常にすでに「わたしの世界」に属してしまっている存在者としての物あるいは道具に出会うのである。
 
 
 さて、あらためて注意を向けなければならないのは、この「常にすでに」にほかならない。
 
 
 物あるいは道具は、「常にすでに」適所を得てしまっており、何かの役に立つものとして出会われる。このことは、出会われる物が普通の意味では役に立たないもの、たとえば部屋の例でいうならば、鉛筆の削りくずや書き損じの紙のような、ゴミ箱に捨てられるようなものであっても実は動かない。それらのものは「何物でもない事物」であるよりは「捨てられるべきもの」なのであって、それらのものもまた、「捨てられるべきもの」として適所全体性に常にすでに属してしまっていることには変わりがないからである。
 
 
 ハイデッガーはこの「常にすでに」について、ア・プリオリという語を使用している。
 
 
 「適所性にもとづいて開けわたしながら、〈そのつどすでに適所をえさせてしまっていること〉は、ひとつのア・プリオリな完了であって、この完了によって、現存在自身の存在のしかたが特徴づけられている。」(『存在と時間』第18節より)
 
 
 「ア・プリオリな完了」は、私たちが日常において物あるいは道具に出会うための、可能性の条件をなしている。ここにおいてハイデッガーの世界論は、カントによってはじめて明確に定式化されたところの、超越論哲学の理論的関心を引き継ぐものであることが明らかになる。『存在と時間』は二十世紀の哲学者による、超越論哲学の根本的な書き換えの試みの書でもあると言えるだろう。
 
 
 
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 ただし、カントもそう考えていたであろうのと同じように、『存在と時間』のハイデッガーもまた、超越論哲学の企てが近代の哲学に固有のものであるとはいささかも考えていない。超越論哲学とは、ある意味では、哲学の避けることのできない運命である。哲学が哲学たらんとする限りは、その哲学は、どこかで超越論哲学の刻印を帯びざるをえないのである。
 
 
 「ア・プリオリ a priori」というラテン語は、「より先なるものから」、すなわち、この文脈においては「先立って」を意味している。それは、動かすことのできない「常にすでに」なのであり、人間が存在者に出会う時には、必ず先立って満たされてしまっている条件をなすものを指し示す言葉なのである。ハイデッガーは『存在と時間』と同時期に行われた講義においては、このア・プリオリのことを「存在の称号」であるとも表現している。ある意味では「ア・プリオリ」に出会うことこそが、哲学的思考が存在の意味に出会うことにほかならないのである。
 
 
 ただし、ハイデッガーの世界論は哲学の宿命としての超越論哲学の伝統に対して、一つの改変をもたらすものであることには、注意しておかなければならない。すなわち、「ア・プリオリ」の意味を思考すること、理論的に物事を考えることのうちに押しこめ続けてきた従来の哲学の枠組みに対して、ハイデッガーはこの「ア・プリオリ」なるものを、私たちが生きているごく普通の日常生活のただ中において捉えようとしているのである。これはいわば、日常的なもののア・プリオリを、生活において生きられるア・プリオリを探り当てようとする試みにも等しいと言ってよい。『存在と時間』の叙述は、ふつうに考えるならば学問の対象には到底なりえないと思われるような生の経験を、なんとか学問の言葉へと置き換えようとする苦闘の試みであると言うこともできそうである。