イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「生きることは、信じるに値するのか」

 
 日常における物の存在は、現存在、すなわち人間が人間として存在することを目立たないところから支えている。『存在と時間』の世界論を締めくくるにあたって、私たちは、このような見方に対する次のような疑義に向き合っておかなくてはならない。
 
 
 疑義:
 このような見方は結局のところ、単に人間中心的な物の見方にすぎないのではないか?
 
 
 すなわち、ハイデッガーが論じているような「物の存在(世界内部的な存在者、あるいは道具の存在)」はあくまでも「人間にとっての物の存在」なのであって、要するに、人間にとってのみそう見えるような幻のごときものにすぎないのではないか、ということである。ある意味においては正当なものでもあるこのような見方に対しては、次のように答えておかなければならない。
 
 
 上の疑義への、さらなる疑義:
 しかし、私たちはそのような疑義を提出するよりも前に、物が自分自身に即して自分自身を示すという、その根源的な出来事に立ち会う必要があるのではないか?
 
 
 私たちが物の存在に出会うのは、このような根源的な出来事を通してのことにほかならない。この出来事の根源性は、日常性のもつ平板な見かけによって、常にすでに覆い隠されてしまう途上にある。それでもこの出来事は、物の存在そのものについての存在了解を突き止めようとする人間の学問的な探求に対しては、その内実を明け渡してくれるもののはずなのである。現象学の遂行は、このような意味での出来事へと、事象そのものへとたえず遡ってゆこうとする、人間存在そのものの事象への向き直りに基づいてのみ可能であると言えるのではないだろうか。
 
 
 
 ハイデッガー 現象学 存在と時間 哲学への寄与
 
 
 
 上で論じたような問題はつまるところ、「生きることは信じるに値するのか」という根源的な問いかけに繋がっているものと思われる。そして、私たちが生きているこの時代は、おそらくはハイデッガーの時代にもまして、生きることそれ自体に対する根源的な不信によって貫かれている。私たちは、生きることそのものから見捨てられている。私たちはいわば、生の意味を経験することから締め出されているのである。
 
 
 ハイデッガーは『存在と時間』において、現象とは「自分を自分自身に即して示すもの」であると語っている。この規定をめぐって最終的に問われることになるのは、おそらくは信じることの問題圏にほかならないだろう。ハイデッガー自身も後に書かれた『哲学への寄与』(まだほんの三十年ほど前、ハイデッガーの死後になってから出版されたこの本は、彼の第二の主著をなすものであるとも言われている)においては、極めて簡潔な形ではあれ、この辺りの問題をめぐって信の問題に触れている。この人には、現代の人間が向き合わなければならない問いの輪郭が、本当によく見えていたのだろう。
 
 
 すべては脳髄の見せる幻にすぎないとか、あるいは信じることはすべからく空しいといった結論に行き着くためには、ひとはわざわざ哲学の営みを必要とはしないだろう。反対に、極限的とも言える思惟の努力を必要とするのは、生きることの根底へと突き入っていって、そこから意味のような何ものかが生まれ出てくる、まさにその瞬間に立ち会おうと試み続けることの方である。『存在と時間』において語られている「現象学」という言葉のうちに賭けられているのは、生きることそのものには意味があるのかという、その根源的な問いの帰趨にほかならない。この点に関しては、哲学の営みに命を注ぎ込むことそれ自体がすでに、この問いに対して「生きることは初めから終わりまで、熱情をもって生き抜くだけの価値がある」と答えることを意味しているとも言えるであろう。