イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「現存在は〈ここに〉いるのではなく、〈あそこに〉いる」:ハイデッガーの空間論

 
 私たちは前回までで、『存在と時間』の世界論については論じ終えた。今や私たちは現存在、すなわち人間について、世界内存在という語を自由に用いることができる。人間は、世界内存在する。すなわち、人間は世界のうちで、そのつど常にすでに適所性のネットワークのうちで持ち場を得てしまっている物や道具との関わりを持ちながら、実存するという仕方で存在しているのである。
 
 
 このように世界内存在する存在者である人間には当然のことながら、空間性という性格が帰属している。ここでは、『存在と時間』におけるハイデッガーの空間論を詳細にたどることはしないけれども、彼の哲学的思考のあり方を如実に示していると思われる以下の一文を手がかりにしつつ、その空間論の中身を少しだけ覗いておくことにしよう。
 
 
 「現存在がその空間性に応じてさしあたり存在しているのは、だんじて〈ここに〉ではない。〈あそこに〉である。」(『存在と時間』第23節)
 
 
 人間は〈ここに〉ではなく、〈あそこに〉いる。一体何を言っているのか、私たちは、人間がいるところを〈ここ〉と呼んでおり、〈ここ〉ではない向こうをこそ〈あそこ〉と呼んでいるのではないのかという疑問が出てくるのは避けられないところであるが、ハイデッガーが言いたいのは、以下のようなことである。
 
 
 たとえば、わたしが職場まで行く途中に、電車を待って駅のプラットホームで立っているとする。その時、わたしは確かに〈ここに〉、すなわちプラットホームで立ち止まっているのであるが、それはあくまでも、〈あそこに〉すなわち職場までの移動という文脈においてのことなのである。
 
 
 あるいは、わたしが部屋の中の〈ここ〉からテーブルの上のコーヒーカップの方に手を伸ばすとしても、その〈ここに〉はコーヒーカップのある〈あそこに〉から理解されている。人間はこのように、今いる〈ここに〉を常に〈あそこに〉の方から理解している。〈ここに〉は独立した場所あるいは方位であるのではなくて、常にそれと組になっている〈あそこに〉とのダイナミックな連関のうちで生きられているというわけである。
 
 
 
ハイデッガー 空間論 存在と時間 隠れた名文 現存在
 
 
 
 このように、『存在と時間』におけるハイデッガーの空間論は、プロセス志向というか、人間が生きている空間性の動的な性格を非常に強調するものとなっている。
 
 
 彼は空間性を生きる現存在(人間)のあり方を、「方向を合わせつつ、距たりを取りさること」と表現している。要するに、行く方向を決めながらどこまでもズンズン進んでゆくというわけで、空間のうちを生きている人間の姿を、まるで止まったら死んでしまうマグロ(他に表現のしようがないので、この表現を用いることを諒とされたい)ででもあるかのように絶えず移り変わってゆくプロセスのうちで描いているという意味では、ある種、異様に生き生きとした空間論になっているとも言える。
 
 
 興味深いのはしかし、人間が生きる空間性について語っているその論じ方のうちにも、彼が人間存在について抱いている、その根本直観が反映されているという事実である。
 
 
 人間は〈ここに〉を、常に〈あそこに〉の方から理解している。つまり、人間は常に自分自身の将来の姿へと向かいながら、今のこの時、この場所を生きているのである。自らの存在可能に関わり、自分自身の存在可能に向かって現在を生きる人間の姿がここにある。『存在と時間』の空間論には、可能性に先駆しつつ実存する人間存在の根本の姿が、すでに少しだけ透けて見えているのである。
 
 
 最後の論点については人間の本来性という主題が関わってきてしまうので、本格的に論じるのは、もう少し後の部分を待たなければならない。空間論は今回限りということにして、次回からは次の大きな主題に取りかかることしたいが、それにしても、「現存在がいるのは〈ここに〉ではなく、〈あそこに〉である」とは、非常にインパクトのある言葉である。あまり知られてはいないけれども強烈な印象を残さずにはいない言葉、本のうちに秘められている「隠れた名文」(?)に出会うことは、古典を読むことの醍醐味の一つと言えるであろう。