イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「運命を掴みとれ!」:内存在の分析へ

 
 私たちは、現存在、すなわち人間という存在者の根本体制であるところの「世界内存在」に関して、すでに「世界」については論じ終えた。私たちは次に、「内存在」の解明に移ることにしよう。その解明がなされた後にこそ、『存在と時間』において語られている、「世界内存在」という語の十全な意味が規定されうることであろう。
 
 
 さて、内存在論であるが、その内実を探ってゆくにあたって最初に注意しておくべきことは、内存在という現象を解き明かすことは、ハイデッガーが〈現〉と呼ぶ事態の内実を解き明かすことにほかならない、ということである。
 
  
 人間は、世界のうちに存在している。すなわち、すでに見たように、人間は世界のうちに存在する物や道具に関わりながら、〈あそこに〉の方から今いる〈ここに〉を理解するという仕方で存在しているのである。
 
 
 ハイデッガーは、人間が世界に対してこのように開かれているという事実を、〈現〉という語で表現する。〈現 Da〉は「現存在 Dasein」という時の「現」と同じ語であり、普通用いられる場合には「ここに」とか「あそこに」を意味する。現存在としての人間は、そのつど自らの〈現〉である。人間はこのように、常にすでに世界のうちの特定の状況に対して開かれているという仕方で存在しているのだ。
 
 
 世界への開かれという事態を〈現〉という一語で言い表すのは、コンパクトで非常に使い勝手のいい言い方である。ハイデッガーという人はとにかく新語を次々と作り上げてゆく哲学者で、「ハイデッガー語」としても知られるその語彙群はあまりにも言語に過度のツイストをかけているきらいもあり、それらを読み解こうとする研究者たちを絶望のどん底に突き落とすことも決して稀ではないのだが、この〈現〉のケースについては、術語化はとても上手くいっているのではないかと思う。私たちも、これから先の読解ではこの語を用いてゆくことにしよう。
 
 
 
 ハイデッガー 世界内存在 内存在 現存在 存在と時間
 
 
  
 さて、本題に戻ろう。人間は、そのつど自らの〈現〉であるとして、それでは、その〈現〉はどのような内実を持っているのだろうか。世界に対する人間の開かれは、開かれとして、一体どのような構成を備えているのだろう。
 
 
 『存在と時間』のハイデッガーはこの構成を、以下の三つの契機にしたがって分析することにしよう、と提案している。次回以降の記事では、これらの契機を順番に論じてゆくことにしよう。
 
 
 Ⅰ 情態性
 Ⅱ 理解
 Ⅲ 語り
 
 
 世界論は全体の議論への導入、あるいは下準備になっているという事情もあって、議論の内実はしごく穏やかで落ち着いたものであったが、この内存在論のあたりから、実存の哲学者としてのハイデッガーの本領が少しずつ発揮されてくる。
 
 
 すなわち、自分の意志のいかんには関わらず「運命として」世界のうちに存在せねばならず、しかしその中にあって、たえず自らの存在可能に関わりながら、存在可能を掴みとり続けるという人間存在のむき出しの姿が、少しずつ読者の目の前に現れはじめるのである。いわば、「運命を掴みとれ!」という、この本の根本モチーフの一つがようやく音楽として鳴り始めるわけで、哲学の歴史の中でも稀に見るドラマ性を備えたこの本の、後半部に位置する頂点に向けての道行きがこの辺りから本格化してくるのである。このことを念頭に置きつつ、読解を一歩一歩進めてゆくこととしたい。