イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

気分、あるいは、直観することの天才について:内存在の第一の契機

 
 内存在を構成する三つの契機のうちの一つ目が、「情態性」である。これは普通の言葉でいえば、気分という現象に対応するものである。
 
 
 気分に関する根本テーゼ:
 気分は現存在、すなわち人間のそのときどきの存在がどのようなものであるかを、その度ごとに開示する。
 
 
 喜ばしい気分から重苦しい気分に至るまで、人間の生は常になんらかの気分によって気分づけられているけれども、気分はその人間の〈現〉のありようを、すなわち彼あるいは彼女のそのときどきの実存を、裂け開くようにして開示する。これが、情態性に関するハイデッガーの主張の核心である。
 
 
 この論点は非常にシンプルなものであり、理解するのにはほとんど労苦することを要しない。言ってみれば、誰にでもわかる、誰にでも思いつけそうな論点なのではないかと一見思えなくもないけれども、この論点を指摘している箇所は『存在と時間』の中でも、高く評価され続けてきた部分の一つである。この部分におけるハイデッガーの解明が見事であるというのは、多くの研究者たちが一致して認めるところであると言ってよさそうだ。
 
 
 思うに、このことの理由は、「気分は人間の存在そのものを開示する」というテーゼが、人間存在が日々生きている経験の核心を、一言で、あまりにも鋭くえぐり取ってしまっているからであろう。こういうテーゼは当たり前のものであるようで、おそらくは、研鑽を重ねつくした哲学者にして初めてその明確な定式化を見出すことができるといった類のものである。こうしたテーゼはデカルトの「コギト・エルゴ・スム」などと同じように、人間の最も根源的な知的直観の働きが、極限的なシンプルさを備えた秩序を見出すことへと必然的に収斂してゆくものであることを例証するもののように思われるのである。
 
 
 
内存在 現存在 情態性 ハイデッガー 存在と時間 デカルト コギト・エルゴ・スム 外部 内部 直観
 
 
  
 「気分は『外部』からくるのでも『内部』からくるのでもない。世界の内に存在する様式として、世界内存在そのものから立ちのぼってくる。」(『存在と時間』第29節より)
 
 
 気分は人間がそのつど生きてしまっている自分自身の存在を、理論的な認識よりもはるかに深いところから、きわめて鋭い仕方で開示してしまう。気分を軽んじることは、実存的にも実存論的にも不当であると言われるゆえんである。
 
 
 人間の活動のさまざまな分野において本質的な仕事を成し遂げた人々、あるいは、歴史の中で英雄と呼ばれてきた人々の人生について、書物や映像を通して触れていると、そこにはある共通の特徴が存在することがわかる。それは、彼らが単なる理屈づけや個人的な性癖を超えて、自分自身が置かれているそのときどきの状況を直観して行動するための、特異な嗅覚のようなものを持ち合わせているということである。
 
 
 自分自身でそのことを意識しているかどうかはともかくとして、彼らはおそらく、自分自身の気分を通して状況を察知することの天才なのである。普通の人々が世間で流通している固定観念や、あるいは他の人々が言っていることに合わせて行動するところで、彼らは自分自身に与えられている気分に忠実であることの方を信頼する。それは彼らが、〈現〉を開示するものは気分のほかになく、理論的に物事を考えるべき局面は少なくないとしても、それはあくまでも気分による開示の導きを前提とすべきものであることを体で知り抜いているからなのであろう。行動の天才とは直観の天才であり、直観の天才とはまずもって気分を生きることの天才なのであるというのは、情態性をめぐるハイデッガーの分析からも引き出しうる帰結の一つなのではないかと思われるのである。