イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わかる」と「できる」の世界:内存在の第二の契機「理解 Verstehen」

 
 「情態性」に次いで内存在のあり方を規定する契機の二つ目は「理解」である……が、『存在と時間』における「理解」の概念について論じ始めるにあたってまず指摘しておかなくてはならないのは、ハイデッガーがこの「理解Verstehen」なる語を、普通の意味とはかなり異なったニュアンスで用いているという事実である。
 
 
 おそらく、『存在と時間』の中でも「理解」について語られている第31節は、この本のうちでも最も難しい箇所の一つであるに違いない。ハイデッガーが「ハイデッガー語」とも呼ばれる独特な語彙群を用いて思索してゆく哲学者であることはすでに述べたが、「理解」の語については「うわ、これはさすがにエグいな……」と思わず声を漏らさずにはいられないほどにトリッキーな意味合いで用いられている。
 
 
 しかも、この謎めいた意味合いで用いられる語に対して、これまた意味のよく分からない「投企」なる語が割り当てられ、「理解とは投企である」と宣言されるに至っては、これはひょっとしたら翻訳が悪いのではないかという、読者にとっては禁断の疑念が湧き上がってくるのももっともである。ところが、この場合にもこういう時の通例と同じく、問題は翻訳者ではなく著者当人の方にあるのであって、くだんの「ハイデッガー語」が、日本人のみならずドイツ人のハイデッガー研究者たちをも頭痛に陥らせずにはおかない悪夢の源泉であることは、ここに指摘しておかなくてはならない。
 
 
 ただし、すでに述べたように、ハイデッガーという人は意味のないことは決してしない人なので、この場合にも、この人が「理解」という語をトリッキーに用いたことの必然性はないわけではない。ハイデッガーはこの語を用いつつ、理解という語、それから「わかる」という語の奥深い意味の射程を用いながら人間存在のあり方を明るみにもたらそうと試みているのである。
 
 
 
 理解 ハイデッガー 存在と時間 投企 わかる できる
 
 
 
 議論の出発点:
 私たちが「わかる」という語を用いる時には、暗黙のうちに、「できる」のニュアンスもこめるような仕方で用いているのではないだろうか。
 
 
 たとえば、「泳ぎがわかる」「コーヒーの淹れ方がわかる」などという時には、狭い意味で知的に理解しているというよりも、むしろ行動の仕方が「わかっている」ことを、その能力があることを意味している。「数学がわかるようになってきた」とは、単に先生が話していることの内容を把握し、黒板に書いてあることを追えるというだけのことではない。数学の問題が解けるようになってきてはじめて、「わかるようになった」という言葉がその実質を帯びるのである。
 
 
 このように、「わかる」とは根源においては「できる」である。わかるならできるのだし、できるならば、たとえ口では上手く説明できずとも、本当は理屈よりも深いところでわかっているのである。「わかるようになる」とは新しい可能性に向かって開かれること、世界との、これまでになかった関わり方に目覚めてゆくことにほかならないのだ。
 
 
 ハイデッガーのいう「理解」とはかくして、人間がこの世界のうちに存在している、その存在の仕方の根幹に関わっているということになりそうである。人間は「わかる」という仕方で存在し、「わかる」からこそ「できる」という仕方で世界に関わっているのではないか。次回以降の記事では、ハイデッガーと共に、この「わかる」と「できる」の世界をさらに掘り下げてみることにしよう。