イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ハイデッガーと身体の問題(付:ドイツ人とフランス人)

 
 『存在と時間』における「理解」の概念については、ハイデッガー自身は慎重に黙して語っていないとはいえ、身体性の問題が深く関わってくることを、議論をさらに進める前に指摘しておかなくてはならないだろう。
 
 
 現存在、すなわち人間は、理解するという仕方で自分自身の〈現〉である。人間は、歩き方、泳ぎ方、コーヒーカップの持ち方etc……といった、さまざまな存在可能を生きるやり方が「わかる(=理解)」という仕方でもって、世界のうちに存在しているのである。
 
 
 こうした無数の存在可能性は、身体の「できる」との相関なしにはありえないことは、言うまでもないだろう。自転車の乗り方が「わかる」とは、ハンドルを握りしめる手からペダルを回す足の先に至るまで、体のバランスの取り方も含めて、全身でこの乗り物を操ることが「できる」ことに他ならない。「理解」とはまずもって、身体による理解以外のものではありえないであろう。
 
 
 しかるにハイデッガーは、『存在と時間』では「理解」を問題にしている第31節はおろか、他の箇所でも身体性の問題はほとんど取り扱ってはいない。あらためて考えてみるならば、現存在(人間)のあり方を根源から捉え直すことの必要性を強調し続けているこの本で、人間存在が身体を持っており、身体によって生きているという事実にほとんど全く触れられないというのは、かなり奇妙な事態ではあると言えそうである。
 
 
 明らかにこれは哲学者当人による、ほとんど確信犯的な沈黙である。ハイデッガーは晩年に行われたあるゼミナールでは、身体性の問題は『存在と時間』執筆当時はまだきわめて難しい問題であったため、書中ではほとんど論じることができなかったという趣旨の発言をしている。したがってこの本、特に「理解」をめぐる部分の読解を進めてようとする読者は、本来ならば論じておいた方がよい話題が意図的にスルーされているという事実を念頭に置いておいた方が、事柄の理解はスムーズに進むであろう。
 
 
 
存在と時間 ハイデッガー 理解 現存在 モーリス・メルロ=ポンティ ミシェル・フーコー ジル・ドゥルーズ 身体性 ジャック・ラカン ナポレオン タレーラン・ペリゴール
 
 
 
 先達が正面から扱わなかった問題は必然的に、後進が追いかけることになる。かくして、モーリス・メルロ=ポンティからミシェル・フーコージル・ドゥルーズに至るまで、身体性の問題は二十世紀後半の哲学史(この歴史は多かれ少なかれ、『存在と時間』が及ぼした莫大な影響のうちで展開されずにはいなかった)にとって、一つの重要な焦点をなすこととなった。
 
 
 当の『存在と時間』に戻って言うならば、この本全体の構図からして、身体の問題には触れずすます方が主張がクリアーになるという側面があることも確かである。この本に限らず、ハイデッガーにとって身体性の問題は生涯を通して、「より重要な問題を正面から論じるために、目下のところはスルーせざるをえない問題」であり続けたように思う。したがって、非常に中途半端な形にはなってしまうけれども、筆者自身もここでは「この論点には身体性の問題が深く関わっている」という事実を指摘するにとどめて、これ以上深入りすることは控えることとしたい。一応、事柄の上からも付け加えておかなくてはと思って書いてはみたけれども、「だったら言うなよ」とのツッコミは避けられないところであろう。
 
 
 その上で、今回の記事から何らかの教訓を引き出しうるとするならば、「表立っては語られていない部分にも目を向けるようになると、哲学史(あるいは、哲学)を学ぶことはさらに興味深いものになる」といった所になるであろうか。身体性の問題について言うなら、ジャック・ラカンジル・ドゥルーズといったフランスの実力派の人たちは、いずれもハイデッガーの仕事を非常に強く意識しながら、身体の問題、なかんずく身体と性の問題を鋭く掘り下げていった。いわば、ドイツ人が深くは追わなかった問題をフランス人が、しかも、きわめてフランス人らしい(?)やり方で、どぎつくエロティックに、ほとんど倒錯的な仕方で追求していったとも言えるであろう。ナポレオンをして「絹の靴下の中の糞」と評せしめたかのタレーラン・ペリゴールをはじめとして、数多の「格調の高いゲス野郎ども」を輩出し続けてきたフランスの大いなる伝統の確かさを感じさせるエピソードであると言っては、穿ちすぎた見方というものであろうか。