イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

運命のうちで抗う一つの運命:「理解の投企性格」について

 
 「理解」については、「理解の投企性格」という論点を掘り下げておかなければならない。
 
 
 現存在、すなわち人間は「理解する」という仕方で世界のうちに存在している。彼あるいは彼女には、歩き方、椅子の座り方、キーボードの打ち方etc……が「わかっている」。「わかる」からこそ「できる」、それが、すでに論じた情態性としての気分と合わせて、人間を人間たらしめている根本の条件にほかならないのである(基礎的な実存カテゴリーとしての理解)。
 
 
 このことは「人間は、自らの存在可能に関わって存在している」と言い換えることもできるが、「理解」とはこの観点からすれば、可能性を可能性として存在させることであるとも言えるのではないか。「わかる=できる」は、走る可能性、歌う可能性、靴を履く可能性etc……のうちに人間を置き入れる。そして、この「可能性への置き入れ」こそが、ハイデッガーが「理解の投企性格」と呼んでいる契機にほかならないのだ。
 
 
 「投企する entwerfen」は形の上では「投げるwerfen」を含んでいるが、通常は「設計する」とか「デザインする」を意味する語である。「投企する」という、日本語的にはどう見ても謎としか言いようのない訳語が当てられているのは、ハイデッガーがこの語を特殊な意味合いを持った「ハイデッガー語」として使用してしまっているので、いっそのこと「投げる」を含んだ特殊な語で翻訳してしまった方がよいと翻訳者たちが判断し続けてきたからであろう。「企投」と言われることもあるが、意味は同じである。「現存在は、常にすでに投企してしまっている……!」などと試しに口にしてみると、非常にテンションが上がってくる。概して、テンションを上げるという観点からするならば、それが良いことであるかどうかはとりあえず置いておくとしても、ハイデッガーの諸概念の実力(?)は哲学の歴史の中でも群を抜くものであると言えるであろう。
 
 
 
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 ともあれ、哲学的に見て重要なのは、「現存在としての人間は、これから投企するというのではなく、常にすでに投企してしまっている」という論点にほかならない。
 
 
 たとえば、キーボードの打ち方がわかっている人は、まさしく「わかってしまっている」のであって、これから打とうとするまでもなく、キーボードを打つという存在可能をすでに存在させてしまっているのである。人間はいわば、自らの可能性を常にすでに世界に向かって投げかけてしまっている。それも、「わたしは投企する」と意識して考えることも、自分が投企していることに気づくことすらなく、常にすでに「投企してしまっている」のだ。
 
 
 「〈現〉の存在を実存論的体制を被投的な投企という意味で解明することによって、現存在の存在はますます謎めいたものとなるのではないだろうか。じっさいにそうである。」(『存在と時間』第32節より)
 
 
 人間の運命とはいわば、二重のものである。すでに見たように、人間は被投性の契機によって特徴づけられており、常にすでに、何らかの「パトス=気分」のうちに投げ込まれている。人間は自らの〈現〉のうちへと委ねられているのであって、この意味からすれば、人間は「現実からは、決して逃げることができない」のである。
 
 
 けれども、この被投は同時に「投企への被投」でもあって、人間は逃れることのできない苦境と悲惨のただ中で、どこまでも気高く光り輝く自らの存在可能に向かって、それと気づくことすらなく投企してしまっている自分自身をも見出すのである。たとえいかなる状況のうちにあろうとも、一矢報いる可能性、自らの最も固有な存在可能に向かってすべてを賭けてみるという可能性もまた、与えられているのだ。人間とは被投的な投企として、運命のうちで苦境に抗う一つの運命である。何がやって来たとしても、どれだけ打ちのめされたとしても、「このままでは終わらんぜ」と口にしながら立ち上がる自由が、人間には与えられているのである。