イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「いかにして、人は本来のおのれになるか」:「理解」に関する考察の終わりに

 
 「理解」についての議論を締めくくるにあたって最後に見ておきたいのは、「理解」の契機が、いわゆる意識の次元よりも奥深いところから人間を構成するものであるという論点にほかならない。
 
 
 現存在、すなわち人間は常にすでに「投企してしまっている」(前回の記事参照)。わたしが歩くよりも前から、歩く可能性はわたしの〈現〉を構成してしまっているわけで、投企することとしての「理解」は、わたしが「あれかこれか」と思い悩むよりも前に、わたしをわたしの存在可能として存在させてしまっているのである。
 
 
 そうであるとするならば、何事かを行うということは、すでに自分自身に与えられている、その可能性を実際に仕上げることにほかならないと言えるのではないか。
 
 
 「ただそうであるがゆえにのみ、現存在は理解することにおいて、じぶん自身にこう語ることができるのだ。『きみが在るところのものに成れ!』」(『存在と時間』第31節より)
 
 
 ある意味では、行動に移らない限りは、わたしはまだ十分にわたし自身として存在していないとも言えるのである。存在可能はいまだ存在可能として、実現されないままにとどまっている。行動に移ることもできるはずのところで、わたしはわたし自身のためらいあるいは恐れから、行為へと跳躍することを先延ばしにし続けているのだ(現代人のオブセッションとしての、ハムレット問題)。
 
 
 だからこそ、「きみが在るところのものに成れ! Werde, was du bist!」が、実存する人間すべてに当てはまる言葉として、ためらいのうちにある人間に深く迫ってこざるをえないのである。この言葉は人間に、自己自身になるという冒険の中の冒険に向かって、おのれの全存在を賭けて跳躍するようにと語っている。この状況がまさしくハムレットのそれに他ならないものであることを考えるならば、その人が思慮のある人であればあるほど、彼あるいは彼女はそれだけ深く迷わざるをえないことだろう。しかし、そうしたすべての「生きるべきか、死ぬべきか To be or not to be」に対して「それでも、わたしはわたし自身が何者であるのかを知らねばならぬ!」と答えざるをえないのが、人間存在に課せられた運命というものなのかもしれない。
 
 
 
理解 投企 現存在 存在と時間 ハムレット 生きるべきか、死ぬべきか 実存 先駆的決意性 可能性
 
 
 
 現存在であるところの人間は、常にすでに投企してしまっている。この論点はあらためて考えてみるならば、本来的実存、すなわち「わたしはいかに生くべきか」という問題の構造について考える上でも、示唆するところが大であると言えるのではないか。
 
 
 人間の可能性は、その人自身が考えているよりもはるかに深いところからその人に与えられる。そうであるとするならば、わたしの最も固有な存在可能とは、あらゆる表面的な「わたしは〜したい」や「わたしは〜になりたい」を超えたところで、わたしを待ち受けているものなのではあるまいか。人間の認識は常に、彼あるいは彼女の「理解」がその人自身を構成している深みにまでは到達していないのである。この意味からするならば、生きるとは、自分自身でも気づいていない自らの最も固有な存在可能に向かって、たえず全力で身を投げ出してゆくことに他ならないのではないか……。
 
 
 「理解」の契機は実存の問題に深く関わるものであるため、自然と『存在と時間』の中核に関係する議論にも触れることになった。この辺りの事情については、詳しくは終盤の「先駆的決意性」の概念の登場を待たなければならないが、それにしても、この話題には、人間を本能の深いところから駆り立てずにはおかないところがあることは確かである。ともあれ、内存在の第二の契機であるところの「理解」についてはこれであらかたの所は見たことにして、私たちとしては、第三の契機の方へ進むこととしたい。