イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「語り」は語らない:内存在の第三の契機「語り Rede」

 
 内存在のあり方を規定する三つ目の契機は「語り Rede」であり、ここにおいてはじめて「言語とは何か?」という問いが正面から問われることになる……のではあるが、この場合にも第二の契機である「理解」についてなされたのと同じ注意点を、まずは喚起しておかなくてはならない。それは、「語り」という語をハイデッガーが、通常の使われ方とはかなり異なった意味合いで用いているという事実にほかならない。
 
 
 今度の場合もミスリーディングというか、非常にトリッキーな言葉づかいなされている。というのも、ハイデッガーが『存在と時間』でいう「語り」とは、少なくとも第一義的には、言葉という形で声に出して語ることを指しているわけではないからである。いわば、「語り」は語らない、というわけである。
 
 
 「語り」なのに語らないってどういうことなんすか、というツッコミが思わず読者の口から飛び出すのもまことに無理からぬことであって、こんな曲がりくねった言葉の使い方をするのは長い蓄積を持つ哲学の歴史の中でも、ハイデッガーくらいのものである。かと思うと、普通に「言葉を語る」という意味で「語る」の語が使用されている箇所も遺憾ながら数多く見出されるので、この本を読みはじめたばかりの読者には、やりたい放題の著者の用語法にまずは一通り絶望するという以外の選択肢は残されていない。
 
 
 こんなものはもう読まずに済ませたいというぼやきが出てくるのももっともではあるが、『存在と時間』はすでに哲学史への殿堂入りを果たしてしまっているので、哲学徒でこの本を完全にスルーすることはなかなかしにくいという状況になっている。後続の私たちとしては、「もう少し普通の言葉の使い方さえしてくれていたら……」というやり切れない思いを抱きつつ、この本の読解にいそしむのみである。
 
 
 
 ハイデッガー 存在と時間 語り 意味
 
 
 
 しかしながら、最初に指摘したこの事実を通して、すでに見えてくることがある。それは、ハイデッガーが言葉を語るという人間の活動を、狭い意味での言語活動よりもずっと広い地盤のもとに置き直して考えようと試みているという点に他ならない。
 
 
 言葉は意味を持つ。しかし、意味という現象ははたして声に出され、文字として書かれる言葉のうちに限定されているものなのだろうか。むしろ、意味の現象はそれよりもはるかに奥深く、人間存在の根底そのものにまで浸透しているのではないか。私たちが意味を道具のようにして用いるというのではなく、むしろ意味の方が、私たちの存在の奥底において私たちを織りなし、形づくりながら、生を生として成り立たせているのであるとすれば……。
 
 
 さらに、このような視点のもとに「声に出して言葉を語る」という活動に再び立ち戻ってみるならば、どうだろうか。言葉を語ることは、私たちがふだん考えているよりもずっと奥深いところからなされる行為にほかならないのではないか。人間はいわば、その全存在を通して語る。語ること、聞くことを十全な仕方でなしうるのはおそらく、適切な仕方で沈黙することを知っている人だけである。こうしたことを踏まえた上で私たちの日常の風景を眺めわたしてみるならば、数え切れないほど多くの言葉とともに織りなされている私たちの生が、これまでとは違った風に見えてくるのではないか……。世界論についで読み続けてきた内存在論の領野も、この第三の契機で最後である。『存在と時間』全体の構造が少しずつ目の前に現れはじめつつあることを念頭に置きつつ、私たちは、この最後の契機の分析に取りかかることにしよう。