イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

語ることの限りない喜びについて:言明は規定する

 
 ②言明は規定する。「このハンマーは重すぎる」という言明にあって、述語「重すぎる」は主語「ハンマー」がいかにあるかを規定している。そのことによって、世界のうちを漂っていた視線がこのハンマーに集中させられて、さらに、ハンマーの「いかにあるか」(=重すぎる)に焦点が合わせられる、というわけである。
 
 
 後に「語り」の契機を掘り下げてゆく際の重要な論点になるのだが、言明はだから、言葉が口に出して発される以前の、世界内存在の次元を基盤にしたところに成り立っている。
 
 
 この場合で言うならば、たとえば、職人が仕事場でハンマーを振るっていて、今している作業に何かしっくりこないところがある、この違和感はなんだろうという時に、口に出さずとも、ああ、ハンマーが重いのだということに気づく。「このハンマーは重すぎる」という言明がなくとも、ハンマーが重いと感じている状況は成り立っている。日常の風景こそが、言明が、その語るべきものを汲み取ってくる源泉にほかならないのだ。
 
 
 それでは、言明は何をしているのだろうか。すでに述べたように、規定しているのである。すなわち、明示的に言われなくともすでに成り立っていた場面のうちで、はっきりと言葉として口に出すことによって、ハンマーが、その重すぎることと共に光り輝くようにして「見えるようになる」。規定する働きはだから、①で述べたアポファンシスの働きを前提している。提示する働きのうちでこそ、その働きの深化あるいは働きの「いかにあるか」として、規定する働きが未曾有のものとして発揮されるのである(言明とともに、ハンマーはその重すぎることの光輝において顕現する)。
 
 
 
 語り ハンマー 哲学 アポファンシス
 
 
 
 ここでも、①の場合に述べたのと同じことが当てはまる。すなわち、私たちの日常の生活場面においてはこの「規定する働き」も実用的な用途に限定されているので、この働きが持っている未曾有の力には、ほとんど気づかれることがない。おそらくは、この記事の前半で書いたようなことを誰か人に話すとしても、大半の場合には「当たり前すぎじゃね?」「つまんない」「ごめん、あくび出ちゃった」等々の反応が返ってくることであろう。
 
 
 しかしながら、言明が持つこの「規定する働き」の持つ魅力には多かれ少なかれ、誰しもが巻き込まれずにはいないはずなのである。たとえば、面白い映画やいい音楽に出会った後には、ひとは必ずそれについて語りたくなるものである。この場合、語ることは何か実用的なことに役立つわけでは全くなく、ひとはただ、語りたいから語るのである。この意味で言うならば、規定することは、人間の喜びの尽きざる源泉である。自分の好きな物事について存分に語ることほどに、純粋な喜びを与えてくれる行為もなかなかないであろう。
 
 
 哲学の営みは言明のもつ、この規定する働きをどこまでも純化してゆくところに成立する。したがって、この営みから得られる喜びもまた、他のどんな営みにもまして純粋で、限りがなく、どこまでも深いものである……が、この営み自体がなにぶん非常にマニアックなものであるため、この喜びを分かち合ってくれる人はごく限られている。この記事についても、こうして一通り書き終えてみた後に、ほとんどの人にとっては空前絶後に面白くないものを書いてしまったのではないかという懸念を感じずにはいられない。「美女とゆく、湯けむり温泉哲学紀行  〜ベイビー、俺とお前で現存在〜」でも書いた方がはるかに世間の耳目を引くことであろうが、今回の記事で述べたようなことは哲学的な論点として見るならば重要なものでなくもないことを、一応、最後に書き記しておく次第である。