イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言明の第三の機能、あるいは、伝えられないはずのものを伝達することについて

 
 最後に、③言明は伝達する。言葉は言葉である限り、その本質からして、他者と分かちもつことに向かって開かれている。
 
 
 哲学が「このハンマーは重すぎる」のような言明について考える際には、これを命題としてのみ見て、その意味と真理値(命題が真、あるいは偽であること)について考えることで済ましてしまうこともありうる。しかし、この言明はそうした相関項を持ちつつ、さらにもう一つのことをも行っている。すなわち、「このハンマーは重すぎる」を、それが聞かれる他者に伝えているのであって、このことは決して単なる付け加えの事実などではなく、言明にとってはその存在理由にも関わる根源的なことなのである。
 
 
 言明において、何が分かちもたれるのだろうか?それは、言明において「提示されたものに関わる存在」であると、ハイデッガーは言う。
 
 
 言明「このハンマーは重すぎる」について言うならば、この言明を口にする人は、提示される存在者であるハンマーに対する関わりを持っている(「重すぎる!」)。言明は、存在者へと向かうこの関わりを分かちもちつつ、存在者を存在者として「見えるようにさせる」。関わりを分かちもつことが、アポファンシスの働きを他者のもとにおいても解放するというわけである。
 
 
 ここで言われる「存在者への関わり」とは別の言葉で言うならば、存在者に向かってゆく人間の存在そのものである。この場合で言うならば、ハンマーとの関わりのうちで存在している世界内存在そのものなのであって、言明は、その根本においてはこの世界内存在そのものを伝達するのである。目立たない仕方ではあるが、あらゆる言明の基盤には「この言葉をあなたに伝えている、このわたしの世界内存在を分かちもってください」が含まれていると言ってよいだろう。
 
 
 
ハイデッガー アポファンシス 存在者 世界内存在 詩人
 
 
 
 ①と②で述べたのと同じことを、ここでも繰り返さなければならない。言明の持つこの伝達する力は本来、とてつもなく大きなものであるが、日常生活においてはこの力は情報伝達という、ごく限られた使用目的に奉仕させられている。哲学や芸術の言葉はここでも再び、言葉のもつこの未曾有の力を解放することに全力を尽くすのである。
 
 
 すでに述べたように、言葉はその根本においては世界内存在そのものを伝達する。つまり、特定の状況のうちで存在している人間の存在を、一度限りの命を与えられて今のこの瞬間を生きている、その人間の実存そのものを伝達するのである。詩人は、通常の場合ならば決して伝えられないものを、普通の人ならば伝えようとさえ考えないものを伝達することに、自身の実存を賭ける。すなわち、生きてゆく上で何が大切で、何がどうでもよいことであるのか、彼あるいは彼女が何に対して幸福を感じ、何に対して憤りを感じているのか。そして、私たち人間は究極的には何のために生き、何のために死ぬのか。こうした問いに対する答えは当然、それぞれの人ごとに答えも違うはずであるという見方もありうるであろう。うまく伝わらないという危険、それどころか、全面的に拒絶されるという危険さえも冒しながら、詩人は私たちに、これらの物事を伝えようとしてやまないのである。
 
 
 詩人の望むところにはこのように、非常に危ういところがあることは確かであるが、ひるがえって考えてみるならば、そもそもあらゆる言葉のうちには、このような「世界内存在を分かちもってください」が含まれていることも否定できない。伝達の力に制限をかけることによって、他者に「安全に伝える」道を確保することはできるが、その分、伝えられることも減ってゆく。どの辺りのところで妥協点を見つけて、うまい落としどころを見いだすのか、それとも妥協したりは一切せず、伝えるべきものに向かってまっすぐに突き進むことを目指すのか、この点に関する匙加減は、言葉を発する各人の判断に委ねられていると言えそうである。