イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

世界の方へ、意味の深みへ:言葉の実存論的基礎を求めて

 
 前回までの分析において、言明は「伝達しつつ規定する提示」として示されることになった。言葉は①提示し、②規定し、③伝達するという、比類のない力を備えている。しかしながら、いまや次のハイデッガーの言葉を手がかりにしつつ分析の進む方向を向け変えて、言語活動の基礎という問題に取り組んでみなければならない。
 
 
 「言明は宙に浮いた態度ではなく、じぶんの側から第一次的に存在者一般を開示しうるものでもない。言明はむしろ、すでにつねに世界内存在という土台に身を置いているのである。」(『存在と時間』第33節より)
 
 
 言葉の持つ力はあまりにも大きなものであるため、哲学者たちはいわば、この力がもつ輝きに幻惑させられてしまうという危険に常にさらされている。アリストテレス以降、哲学が常に論理学と切り離すことのできないつながりを持ち続けてきたことには、言うまでもなく、一定の正当性があることだろう。しかし、論理のもつ明晰さの力に目がくらむあまり、もはや哲学を「言語の哲学」として以外には構想できなくなってしまうとしたら、そこでは行き過ぎが始まっていると言わざるをえないのではないだろうか。
 
 
 たとえば、「このハンマーは重すぎる」のような言明は、言葉にして口に出される以前の情景を基礎として持っている。すなわち、手に持って振るっているハンマーがずっしりと重く感じられている日常の風景である。こうした当たり前の事実に改めて目を向けてみるならば、「言明は、世界内存在という土台に身を置いている」というハイデッガーの主張の真に言わんとするところが、少しずつ見えてくる。私たち人間はこの世界のうちで、日常を生きている。この「日常を生きている」こそが、言葉が言葉として用いられるための、言葉ならざる基礎をなしているのではないだろうか。
 
 
 
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 ハイデッガーの問題提起:
 私たちが生きている言葉以前の日常の風景もまた、言葉と同じように、常にすでに分節化されているのではないだろうか。
 
 
 分節化とはすなわち、「区切って分ける」ということである。差異の体系であるところの言葉の世界は当然、区切って分ける差異化の線が縦横無尽に、無数に走ることによって成立している。しかし、ひるがえって考えてみるならば、どうなのだろうか。ある意味では、言葉として口に出されることがなくとも、私たちが生きているこの日常の世界はすでに分節化されている、すなわち、「区切って分けられている」のではないだろうか。
 
 
 「手」、「振るうこと」、「ハンマー」。あるいは、ハイデッガーが挙げている職人の仕事場の風景の例は現代を生きている私たちから少し遠いものであることを考慮するなら、私たち自身の日常生活の例に引き戻して考えてみてもよいかもしれない。朝、目が覚めて窓を開けると、穏やかな風が吹き込んでくる。外の空気の静かなざわめきの中から、どこかの木の枝に止まっているのであろう鳥のさえずる声が、かすかに聞こえてくる……。「朝」「窓を開ける」「風が」「外の空気の」「鳥のさえずり」、等々。たとえ、全き言葉の沈黙のうちにあるとしても、ここにはすでに、一つの詩ともなりうるような豊かな意味の世界が広がっていることは明らかである。
 
 
 意味は、言葉に特有なものなのだろうか。むしろ、私たちの生はその初めから終わりまで、果てしなく広がる無数の意味の網の目に浸されているのであって、私たちの日常は、この意味化する働きから、ほとんど無限のものと言うほかない、この分節化の戯れからその豊かさを汲み取っているのではないか。語らないものとしての「語り」というハイデッガーの実存論的分析の地平が、ここから開かれてくる。「語り」の分析はいわば、私たちの日常の語られざる奥底を探るといった類の作業になることが予想されるのである。