イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「語りが外へと言表されたものが、ことばである」:ハイデッガーの主張の射程

 
 生そのものを分節化する契機である「語り」は、私たち人間の存在を、その最も深いところから形づくっている。
 
 
 すでに見たように、内存在、すなわち、世界のうちに人間が住まうその住まい方は、「情態性」と「理解」によって特徴づけられる。人間は気分づけられながら、さまざまな行動の仕方が「わかる」という仕方で世界のうちに存在しているのだ。
 
 
 ところで、この「気分づけられた理解」というあり方それ自体が、すでに分節化の働きを前提していることは明らかである。「穏やかな気分で歩いている」「沈み込みながら考え続けている」といった存在可能性はそれぞれ、生を「区切って分ける」ことによってはじめて、存在可能性として存在するようになる。分節化によって成り立つ意味の次元は、私たちの生のどんなささいな場面にまでも浸透しているのである。
 
 
 これが、「語りは、情態性ならびに理解と実存論的に等根源的である」という主張の内実である。「語り」は「情態性」や「理解」に対して後から付け加わってくるのではなく、むしろ「情態性」と「理解」の契機と切り離せない仕方で絡みあいながら、人間の存在そのものを作り上げている。冗長な論述になってしまった観のあることは否定できないが、重要な論点であるため、念入りに展開することをあえて厭わなかった次第である。意味の世界が言葉の意味の領域をはるかに超えて広がっていることについては、いくら強調しても強調しすぎることはないであろう。
 
 
 
語り 状態性 理解 気分 ハイデッガー 存在と時間
 
 
 
 「語り」の契機がこのように人間の生の奥深くにまで浸透しているものであることを確認した後にはじめて、「語りが外へと言表されたものが、ことばである」というハイデッガーの主張の真の射程を見てとることができるようになってくる。
 
 
 「語りが外へと言表されたものが、ことばである。」(『存在と時間』第34節より)
 
 
 言葉を語るという人間の活動は、それこそ人間の全存在を巻き込んだ行為であるはずなのである。気分づけられた理解のすべてを巻き込んで、言葉は語られざる「語り」の次元の内実を外に言表する。言葉を語るという行為のうちには、内奥にあるものを他者に伝えるという驚くべき可能性がはらまれているのである。
 
 
 私たちはすでに予備的な分析として、「伝達しつつ規定する提示」としての言明の機能を見た。それはいわば言語なるものの機能を、外に現れ出てきている姿に即して、外側から眺めたものであった。この時点ですでに、言葉の持つ力が比類のないものであることは十分に示されていたが、私たちは今や、言葉を外側からではなく内側から、すなわち、言葉を発する人間という存在者の内奥から、それが言葉として発されるまさにその場面において捉えるように求められているということになる。
 
 
 日常の生においては、言葉はごくありふれたものとして用いられ続けているけれども、その本来の可能性に即して見るならば、言葉の存在は、当たり前のものどころでは決してないのである。最も内奥にあるものを伝える可能性、一人の人間の生を形づくっている、その存在のすべてを相手に伝えるという可能性が、言葉のうちには宿っている。言葉について語られている『存在と時間』第34節の叙述は非常に簡潔なものではあるが、そこでは言語活動の本来のありうべき姿について、いくつかの重要な指摘がなされている。私たちは、特に「聞くこと」と「沈黙すること」という論点に着目しながら、その論旨をたどっておくことにしよう。