イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

聞くことと読むこと、あるいは、師と弟子をめぐる考察(付:『存在と時間』の読解を始めてみて思うこと)

 
 「すでに理解している者のみが、耳を傾けることができるのだ。」(『存在と時間』第34節より)
 
 
 聞くことと「語り」、「理解」をめぐる論点は哲学を学ぶ人にとって、非常に重要なものである。というのも、哲学を学ぶとはある意味で、他者の言葉に耳を傾けることに尽きるとも言えるからだ。
 
 
 たとえば、自分で論じるためにあらためて読み直していて、ひしひしと感じるのであるが、ハイデッガーの『存在と時間』は何よりも、先人たちの仕事をこれでもかという位の深度と密度、そして幅広さにおいて受け止めるところから生まれてきた本である。
 
 
 もちろん、ハイデッガーの独創はないわけではないが、おそらくはそうしたものも全て、アリストテレスアウグスティヌスキルケゴール、そしてフッサールといった先駆者たちの言っていることをあますところなく吸収したところではじめて閃いてきたものなのであろう。余談にはなってしまうが、そのことを肌で感じ、一人の哲学者がどのようにして哲学者になってゆくのか、その生成のプロセスをいわば内側から学ばせてもらうという意味でも、この『存在と時間』の読解は筆者にとって、今のこの時期に向き合うべき課題であったのだろうなと思う。
 
 
 そういうわけで、今ならば以前以上の確信をもって言うことができると思うのであるが、本質的な哲学者たちはみな、自分で考えたいことを考えるというよりもはるかに、先人たちの教えを貪欲に吸収し続けた人々であった。彼らにはそれぞれ固有の問いと歩みがあったが、そうしたものもまず何よりも、数多の偉大なテクストとの飽くなき対話を経たのちではじめて生まれてきたものであったものと思われる。この意味からすると、筆者には、哲学をするのにもっとも必要な才能とは読む才能、あるいは、他者の言葉に耳を傾ける才能なのではないかと思う。この辺りのことは「存在の超絶」という筆者自身の探求理念にもダイレクトに関わってくることなので、これからも考え続けてゆかなくてはならない。
 
 
 
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 哲学の古典を読むとはそのまま、師の言葉に耳を傾けることにひとしい。
 
 
 師の「理解」は限りなく幅広く、豊かなのであって、弟子の狭量で近視眼的な「理解」をはるかに超えている。弟子からするならば退屈で、平板なものにしか感じられない文章のうちにさえも、ほとんど無限に豊かな「理解」の襞が織りこまれているのであって、ただ、その襞のうちに宿っている真理と美を見てとるためには、限りない精神の集中と努力が必要とされるのである。
 
 
 哲学を学ぶとは、ある意味ではこの「精神の集中と努力」を学ぶことに他ならないのであって、つまりは弟子であることを学ぶことにひとしい。自分自身の存在可能性を広げ、豊かなものにするためには、師の言葉に耳を傾ける以上の方法はないのだ。逆説的なことに、へり下ることへの習熟、「わたしが知らないことを、知っているはずのあなた」であるところの〈他者〉が語るその場所へと赴いてゆく際の熱情によって、哲学への熟練の度合いは測られる。学びには〈愛〉あるいは転移の経験が必然的に関わってくるが、その〈愛〉とはすべての真摯な愛がそうであるように、真理の審級とは決して切り離すことのできない熱情なのである。ともあれ、「語り」と聞くことをめぐるハイデッガーの分析についてはこれで一通り掘り下げたということにして、私たちは、沈黙することという残された主題の方に移ることにしよう。