イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

返信が来るとき、来ないとき:沈黙について考えるための予備的考察

 
 沈黙することについては、以下のハイデッガーの言葉を手かがりにして考察を進めてゆくこととしたい。
 
 
 「おなじ実存論的な基礎を、語ることのもうひとつの本質からする可能性、すなわち沈黙することが有している。互いに共に語りあっているときに沈黙する者は、語が尽きないひとより本来的に『理解させるようにする』こと、つまり了解を形成することが可能である。」(『存在と時間』第34節より)
 
 
 この言葉を読み解くにあたってまず確認しておきたいのは、人間同士の語り合いについては、黙っていることも言葉を語ることと同様に意味を持ってしまう、という事実である。
 
 
 気まずい沈黙、というものがある。たとえば、初対面で話したときに話題が見つからなくて焦る、というのは、誰しも経験したことがあるはずである。この場合、沈黙していることは単に「いま、言葉を交わしていない」を超えて「あなたとわたしには、語り合うべきことが何もない」を意味することになってしまいかねないがゆえに、ひとは慌てて話題を探さざるをえないのである。
 
 
 ここで問題になっていることはたとえば、スマートフォンでの文章上のやり取りという例を考えてみるならばさらに明瞭になってくるのではないか。
 
 
 メールやLINEでやり取りをしているしている相手が自分との関係に乗り気であるか否かは、送られてくる文面だけでなく、返信のタイミングでわかってしまうものである。人間というのは、その気さえあるならば必ず時間は作るものなので、「ごめん、忙しくって……」は、ほとんどの場合には「ごめん、やる気なくって……」のマイルドな言い換えである。
 
 
 「あの子、返事をくれるのがいつも遅いけど、次こそはちゃんと映画に誘うぞ……!」と思っているA君は、おそらくはすでに勝負には負けているのであって、意中の彼女も本人にやる気さえあるならば、もっと素早く彼に返信していたはずであろう。この場合、返信がなかなか来ないという事実が、すでにA君に対する一定のメッセージになっているというべきである(「ごめんね、A君。わたし、キミの気持ちはとっても嬉しいんだけど、本当はキミのこと、ちょっとめんどくてキモいなとしか思ってないの……☆」)。
 
 
 
 ハイデッガー 実存 恋愛 返信 存在と時間
 
 
 
 なかなか本題にまでたどり着かないが、これまでの例から、人間同士の言葉のやりとりについて見えてくることがある。それは、人間は語られる言葉の内容だけではなく、語ったり、語らなかったりするそのタイミングによってもすでに多くを語っているという実存論的事実に他ならない。
 
 
 恋愛の例で議論を始めてしまったので、今回はそのままこの話題を引き継ぐことにしよう。先ほどは「やる気のないがゆえの沈黙」が問題であったが、仮に恋がうまく行っているときであっても、タイミングが多くを語るという事実には何の変わりもない。たとえば、カップルになってゆく二人が次第に知り合ってゆく過程にあっては、「最近、植物園に行きたいなと思ってたんですよね」とか「ごめんなさい、ちょっと相談してほしいことがあって……」とか、一体どこからそんなに用事が湧き出てくるのかというくらいに次々とイベントが発生するもののようである。テンポよく物事が進んでゆく、そのテンポのよさこそが全てを物語っているのであって、これこそはまさしく恋愛マジックであるというほかない。コンテンツではないのである。テンポとタイミングこそが、全てを語るのである。
 
 
 これ以上続けていると話が限りなく脱線してゆきそうなので、『存在と時間』の方に全力で向き直ることにすると、ハイデッガーが『存在と時間』の「語り」論にあって沈黙するという行為に重きを置いているのは、彼が言葉を語るという営みに対して、表面上の意味の次元を超えたところからアプローチを試みていることの証であるといえる。今回は紙幅の関係から予備的な考察を行うにとどまってしまったが、この考察を足がかりにして、次回の記事では「沈黙すること」というもともとの主題に正面から取り組んでみることにしよう。