イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言葉が語られるただ中で、口をつぐむこと:『存在と時間』の沈黙論の内奥

 
 「互いに共に語りあっているときに沈黙する者は、語が尽きないひとより本来的に『理解させるようにする』こと、つまり了解を形成することが可能である。」(『存在と時間』第34節より)
 
 
 人間同士が本来的な仕方で語り合うときには、互いが互いの言っていることを「わかっている=了解している」かどうかという点に関して、深く注意が払われるようになる。
 
 
 自分の言いたいことが相手にわかってもらえているかどうかは、理屈でわかるというよりも、肌で感じられるものである。話をしっかりと共有できている時には、自分からも相手からも、言葉が自然に出てくる。これに対して、どちらか一方だけが話されている話題のうちに入り込んでおり、もう一方は取り残されているという場合には、もう一方のその人は言葉に詰まってしまって、黙ってしまわざるをえない。
 
 
 だからこそ、人間同士が本来的な仕方で言葉を交わし合おうとするときには、互いに互いの言葉を待つことが、どうしても必要になってくる。相手が自分の話を了解して、その了解にもとづいて語りはじめるまでには、時間がかかることもある。人は、そうした時にはしゃべり続けることをやめて、相手がふたたび語り出すのを待たなければならない。
 
 
 互いに互いの存在を受け入れ合う語り合いはしたがって、語ることと同じくらい切実に、沈黙することを必要としている。人間同士が互いの語りについての了解を形成すること、本当の意味で「わかりあう」ことは、なんと稀なことだろう。このことが難しいのはおそらく、人間が、沈黙することを知らないからである。沈黙するとはこの場合、夜明けの光を見張るようにして相手の言葉を待つこと、語られるべきことが語り出されはじめる、その時を待つことにほかならない。
 
 
 
存在と時間 沈黙 語り 世界内存在 ハイデッガー
 
 
 
 さらにもう一つの沈黙、おそらくは、ハイデッガーがこの『存在と時間』第34節を書きつけた時に、いま述べた沈黙よりもより強く意識していたであろうと思われる沈黙がある。この沈黙はもはや待つことの沈黙ではなく、語ることそれ自体のうちに宿る沈黙であり、語ろうとする人がすべてを語り尽くそうとする代わりに、ただその時に語るべきことだけを語ろうとする時に必然的に生まれてくる沈黙にほかならない。
 
 
 「真正に語ることにおいてのみ、本来的に沈黙することが可能である。沈黙しうるためには、現存在は口にすべきなにかを有していなければならない。すなわち、じぶん自身の本来的で豊かな開示性が手の届くところになければならない。」(『存在と時間』第34節より)
 
 
 人間には、すべてを語ることはできない。どうしても語りたいこと、「本来的で豊かな開示性」にもとづいて伝えたいことがあるとしても、そのすべてを余すところなく伝えることは、原理的に言って不可能である。「語り」の契機が、世界内存在の語られざる「深い奥底」の次元を形づくっていることを思い起こすならば、私たち人間という存在者にとっては、「語が欠けている」という状況はほとんど宿命的なものであると言わざるをえない。言葉のもつ力は比類のないものであるとはいえ、言葉は、その言葉が語るべき事柄にいつも少しだけ届かないという運命から逃れることはできないのである。
 
 
 だからこそ、本来的な語りは沈黙しつつ語り、語りつつ沈黙するといった類の行為とならざるをえないに違いない。言葉を語りつつあるそのただ中で、了解しあうべき事柄が「いま手元にある語を超えている」ということ、私たち人間がこの世界のうちで生きているという事実は、本当は、どれだけ語ろうとも語り尽くすことができないほどの豊かさと共にあることが示されなければならないのだ。『存在と時間』を書いたのち、ハイデッガーの書くものは時を経るにつれてますます濃密になってゆき、読んだ後に余韻を残さずにはいないものへと深化していった。このことはおそらく、この本のうちに既に含まれていた沈黙についての思想を、彼がその後にも守り、育み続けていったことの結果なのであろう。