イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

驚異とは、私たちが言葉を交わし合っているというそのことである:「語り」についての分析の終わりに

 
 私たちは前回までの記事で、ハイデッガーの「語り」論について見ておかなければならない論点をたどり終えた。最後にあらためて確認しておきたいのは、この「語り」論が、いわば二つの理念的なモメントによって構造化されているという点にほかならない。
 
 
 ①「語り」は世界内存在の「深い奥底」として、外に表れてくる狭い意味での言語活動よりももっと深いところで、現存在としての人間の生を分節化している。私たちの生は意味によって形づくられ、意味によって織り成されている「語られざる語り」の次元によってはじめて成り立っている。生きることの「意味」はいわば、私たち自身の思いが及ぶことのない深みにまで浸透していると言えそうである。
 
 
 ②しかし、この「語り」が言葉として外に言表され、声となって発されるとき、人間の生は、相互共同存在に向かって開かれる。声はわたしの世界内存在を他者に向かって伝達し、物や出来事、思いを規定し、提示する。今やアポファンシスの働きを帯びるに至った人間の声は、人間自身の存在の深みまでをも照らし出しつつ、分かち合えないはずのものを分かち合おうと「意味」しはじめるのである(先で語られた意味の次元に対して、言葉が持つにいたるこの「意味」はいわば第二次的な意味であり、意味を「見えるようにさせる」意味であるといえる)。
 
 
 言葉が語られるとは、世界内存在が分かち合われるということである。この営みは、平板な情報伝達の行為ではありえないであろう。むしろそれは、心をこめて相手の言葉に耳を傾けること、「理解」し、「了解」しあい、語られるべきことが語られるために時には沈黙することをも含みこむような、全実存を巻き込んだ「行為の中の行為」であり続けるであろう。
 
 
 
 ハイデッガー 語り アポファンシス 意味 理解 実存 存在と時間 情態性
 
 
 
 人間同士が言葉を語り合うということは、本当は何か、真に驚くべきことなのではないか。声が音となって他者であるあなたのもとにまで届き、意味を帯びて、伝達できないはずのものを伝達する。この事実のうちには、決してそのまま通り過ぎるべきではない「神秘」が宿っていると言えるのではないだろうか。
 
 
 実存論的分析なるものに意味があるとすれば、その役割はこのように、ありふれた日常のただ中にある驚嘆すべきものを、驚嘆すべきものとして名指し、言い表そうとし続けること以外にはないであろう。『存在と時間』における「語り」論について行ってきた私たちの読解も、気がついてみれば一ヶ月近くの日々が経過してしまった。すでに論じた「情態性」「理解」の契機に比べるとかなり長い時間をかけたことになるが、人間の営みにおいて言葉を語ることがもつ重要性を考えるならば、これだけの時間をかけて考えてみるだけの意義はあったのではないかと思う。
 
 
 以上、世界論に次いで「情態性」「理解」「語り」からなる内存在論もたどり終えたので、これに続いて一つの山場である真理論(これは、これまで議論されてきたことを真理という論点から捉え直すといった体のもので、この本を通して成し遂げられた成果のうちでも非常に重要なものである)を論じたならば、『存在と時間』の前半戦は終了ということになる。思ったよりも長丁場になってしまっているが、やはり二十世紀の「この一冊」というだけあって、自分で論じる段になってみると、この本が哲学の重要トピックを超高密度で濃縮した力作であることを、あらためて体感させられている次第である。一応、毎回の記事は、それ一つだけ取り出してきても意味は通じるように書いているつもりなので、気が向いた時にでもお付き合いいただければ幸いである。暑い日々が続いているが、よい夏を過ごされんことを……!