イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在者の存在:アリストテレスの言葉から、哲学の原初をたどる

 
 いま論じている問題は非常に重要なものであるため、一歩一歩、じっくりと進んでゆくこととしたい。ハイデッガーも引用しているアリストテレスの言葉から、「哲学の原初」についての、古代ギリシア人自身の証言をたどっておくことにしよう。アルケー、すなわち〈原理〉の探求を行った先駆者たちに触れながら、アリストテレスはこう言っている。
 
 
 「かれら[先駆者たち]がここまで進んでくると、事態それ自らがかれらに道をひらき、新たな問題の探求にかれらを駆りたてた。」(『形而上学』984a18)
 
 
 ハイデッガーによれば、ここで注目すべきは、「事態それ自らがかれらに道をひらき」という表現である。
 
 
 ここでアリストテレスは、哲学者たちの探求が、彼ら自身の意志によって導かれていたとは捉えていない。むしろ、真理あるいは事柄それ自身の方が彼らを駆り立てて、彼らに思考すべきものを思考させたのである。哲学の営みは、〈事柄それ自身〉の方が衝撃として人間を襲うことによって開始された。それが、いま引用したアリストテレスの言葉からうかがい知ることのできる、「哲学の原初」の実相である。
 
 
 もちろん、ここでハイデッガーが読み取ろうとしていることは、古代ギリシア人たちが、しっかりとした学問の言葉という形で言い表していたものではない。しかし、やがて形而上学と呼ばれることになる未曾有の学問について語り出そうとしているアリストテレスが用いているちょっとした言葉遣いのうちに、古代ギリシア人たちが経験した〈はじまりの衝撃〉の残響を聞き取れるとしたらどうだろうか。
 
 
 かくして、真理論におけるハイデッガーの企ては、ギリシア人たちが学問以前の深みにおいて生きていた事柄を、いま初めて学問の言葉へともたらしつつ、「真理とは何か」という問いに根源的に答えなおすといったものとなるだろう。私たちの読解も、この後もしかるべきタイミングが来た時には、ヘラクレイトスパルメニデスといった先駆者たちの言葉に耳を傾けてみることになりそうである。
 
 
 
 アリストテレス ハイデッガー 古代ギリシア はじまりの衝撃 真理論 ヘラクレイトス パルメニデス ある 思弁的実在論 新実在論
 
 
 
 古代ギリシア人たちを襲った〈事柄それ自身〉の内実とは、何だったのだろうか。この点に関するハイデッガーの答えは明瞭かつ、断固としたものである。彼らを襲ったのは、存在者の存在にほかならない。あるものが「ある」ということ、そのことの衝撃が、人間に、哲学の営みを開始するようにと強いたのである。
 
 
 少しだけ先回りして書いておくと、ハイデッガーが1927年に世に問うたこの「存在者の存在」という論点は、2021年の現在においてもなお、アクチュアルな論点であることをやめていない。したがって、事を急ごうとする人々がいかなる思弁的実在論なり新実在論なりを打ち立てようと試みるとしても、ハイデッガーによって提起されたこの「存在者の存在」の方が思索されるべき事柄の深奥に触れているという可能性は、十分にありうる。歴史を軽んじる思考は、当の歴史それ自身によってその無効を宣告されるであろう。過去の賢人たちの言葉に耳を傾けることのない哲学には、いかなる可能性も未来もないのである。
 
 
 本題に戻ることにすると、アリストテレスは先に引用した箇所の近くでは、「真理それ自らに駆りたてられて」という言い方もしている(『形而上学』984b10)。古代ギリシア人たちの思索においては、存在と真理とが併置されていたという事情があったであろうことは間違いなさそうである。それでは、存在と真理とは、なぜ相互に置き換え可能ででもあるかように代わる代わる用いられていたのだろうか。ハイデッガーの真理論はこの点に注意を向けつつ、存在と真理を結びつけている根源的な連関を問うものとなるに違いない。