イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

伝統的真理概念「物と知性との一致」:ハイデッガーはこの概念を、どのように掘り崩そうと試みるのか

 
 ハイデッガーの真理概念に話を進める前に、まずは、伝統的真理概念「物と知性との一致」の内実を確認しておかなくてはならない。ハイデッガーはこの内実を、以下の三つのテーゼに要約している。
 
 
 1  真理の「場所」は言明(判断)である。
 2 真理の本質は判断とその対象との「一致」のうちに存する。
 3 論理学の父であるアリストテレスは真理をその根源的な場所としての判断に割りあてるとともに、また「一致」としての真理の定義を軌道に乗せた。(『存在と時間』第44節aより)
 
 
 まずは、3から見ておくことにしよう。この点に関して注意しておくべきは、ハイデッガーアリストテレスという巨大な先人に対して与えている評価が両義的なものであるということである。
 
 
 前回の記事で見たように、アリストテレスは「哲学の原初」を証言するとともに、彼自身もこの原初の衝撃の圏内で思考していた先駆者の一人である。プラトンアリストテレスは、通常は哲学の伝統そのものを本格的に開始したとみなされているが、やはりそう言われるだけのことはあって、彼らの思考は原初の根源的経験に確かに触れてはいる。
 
 
 しかし、それと同時に、彼らの思考のうちでは、すでにこの「哲学の原初」の衝撃を展開するのと同時に隠蔽する傾向が働いてしまってもいる、とハイデッガーは考える。真理問題に関して言うならば、論理学の父であるアリストテレス(最近になって技術上の、また本質面での大いなる進展がありはしたものの、基本的に、論理学の伝統は2000年以上にわたってアリストテレスの独壇場であった)が軌道に乗せた真理観はやがて後に「物と知性との一致」として定式化されることによって、真理の根源的な現象を覆い隠すに至ってしまった。
 
 
 今日の私たちは「プラトンアリストテレスにおいて、すでに原初の隠蔽は始まっていた……!」と聞かされても、ある意味では慣れっこになってしまっていて、「あー、なんかそう言われてるらしいっすよねー、実際どうなんすか?」位の反応で返すことも稀ではなくなってしまっているけれども、実際にはここは、「なるほど……それでは、原初の実相とはいかに……ゴクリ……」と大いに戦慄しつつ身構えるべきところである。
 
 
 ただし、このように驚きの感覚が失われてしまっていることについては、『存在と時間』の後にも形而上学の根源と行く末について考え続けるあまり、後年には「形而上学はついに終焉する」と主張したせいで「哲学の終わり」というイデーを大いに流布させてしまったハイデッガーの責任(?)もなくはないと言えるかもしれない。いずれにせよ、20世紀の先人たちが、というか主にハイデッガーその人が「哲学は終了した」「形而上学ははっきり言って、終わったコンテンツ」と主張し続けたがゆえに、今日の哲学の学生たちは「終わったとか終わると言われ続けている哲学なるものを、なんだかよく分からないけれど学び続けている」という、非常に宙ぶらりんな状況のうちで勉学に励むことを余儀なくされているというわけである。
 
 
 
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 いずれにせよ、哲学は終わってなどいないものと思われるので、本題に戻ることとしよう(cf.「形而上学の終焉」というテーマについては、『存在と時間』の読解を終えた後に論じることとしたい)。真理をめぐる伝統的な概念がこのようなものであることを踏まえつつ、この伝統の解体に向かって突き進んでゆくハイデッガーの企ては、以下の二つの段階を通過してゆくこととなる。
 
 
 Ⅰ   まずは上で言う2のテーゼ、すなわち、「一致adaequatio」というイデー自体に疑義が提出される。この点は私たちもハイデッガー自身が用いている「壁にかかっている絵」の具体例の分析を通して、じっくりと考えぬいてみなければならない。「壁にかかっている絵が曲がっている」という言明が真であるとは、そこに「言明(判断)と対象との一致」以上のものを見てとることができるとするならば、はたして何を意味するのだろうか?この具体例の分析を通してハイデッガーが「真理の根源的な現象」と呼ぶものが、「一致」のさらに奥にあるものとして浮かび上がってくることになるはずである。
 
 
 Ⅱ こうして浮かび上がってきた「真理の根源的な現象」はさらに進んで上の1のテーゼ、すなわち「真理の『場所』は言明(判断)である」という主張までをも掘り崩すものとなることであろう。すなわち、言明あるいは判断という場所において真理なるものを思考してきた哲学の伝統には疑義が提出され、ハイデッガーは、さらなる真理論の深淵に向かって突き進んでゆくことになる。この深淵への遡行のうちで「現存在は真理のうちにある」という根本テーゼにまでたどり着くことができたら、私たちは、20世紀哲学の「運命の一冊」であるところの『存在と時間』の核心部に、ついに足を踏み入れたと考えてよいだろう。