イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言明の「本当にその通りであること」、あるいは、現象学の根本問題

 
 「確証とは、存在者がじぶんとひとしいありかたにおいてじぶんを示すことを意味する。確証は存在者がじぶんを示すことにもとづいて遂行されるのだ。」(『存在と時間』第44節aより)
 
 
 おそらくここは、しっかりと議論を詰めておくべきところである。20世紀哲学の最重要論点の一つが賭けられている箇所なので、立ち止まって、しっかりと考えておくことにしたい。
 
 
 ①「壁にかかっている絵が曲がっている」という言明は、いかにして正しいものとして確証されるのか。壁に背を向けたまま、「心の中で絵のイメージを思い描く」(この表現は哲学的にきちんと詰められたものではないけれども、その意味するところは通じるであろう)だけでは、確証がなされえないことは明らかである。つまり、確証は「思い浮かべられた絵のイメージ」ではなく、「世界のうちに実在する、あの絵そのもの」に関係づけて行われるのでなければならない。
 
 
 実在する、というのが、ここでのポイントである。言明の正しさが確証されるのはひたすら、そこに「本当に存在する」ところのあの絵が、まさしく言われている通りに、すなわち、曲がってかけられていることが示されることによってである。存在者が自分と等しいあり方において自分を示すことが、確証には必要なのだ。
 
 
 ②さて、そのような「存在者の自己提示」は、どのようにして行われるのか。ハイデッガーの答えは明瞭である。すなわち、見ることによって、である。見ることのうちで、存在者が、自分自身がそうある通りの姿において示される。壁にかけられているあの絵は、言明において言われている通りに、すなわち、本当に曲がってかけられているのだ。わたしは見るという行為によって、まさしく言明の「本当にその通りであること」を見出すのである。
 
 
 
 ハイデッガー 存在者 フッサール 存在と時間 現象学
 
 
 
 おそらく、①のの部分までならば、この議論に納得しない人はほとんどいないことであろう。問題があるとすれば、②の方である。見ることは、本当に「存在者が、自分と等しいあり方において示される」ような経験であると言えるのだろうか。見ることは、ひょっとしたら、単なる幻を目にすることであるかもしれないではないか。
 
 
 この点こそ、フッサールが開始し、ハイデッガーも『存在と時間』においてその名を受け継いでいるところの「現象学」なる学の生命が賭けられている要所中の要所である。率直に言うならば、もしもこの点が崩れるならば、ある意味では現象学のすべてが崩れる。逆に、この点において現象学が正しいとされ、見ることが、存在者をその存在者自身がそうある通りの姿で示すような経験であることが是とされるのであれば、その時には、現象学こそは、人間が真理へと向かってゆくところの思惟の運動に他ならないことになるであろう。「事象そのものへ」という標語はいわば、ごまかしも小細工も全くない、本物の中の本物の思索を指し示す言葉となるというわけである。
 
 
 私たちが今回行いたいのは『存在と時間』の読解であるので、私たちの議論もまた、その枠内に限定されたものであらざるをえない。しかし、その範囲において、フッサールハイデッガーといった先人たちがこの論点に一体何を賭けていたのか、そして、そこで賭けられていたものは21世紀の初頭を生きている私たちにも、なぜ無関係なものではありえないのかを示すことは、なされなければならない。この論点は次回の記事でももう一度だけ取り上げて、しかる後に次の論点に進むこととしたい。