イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

開かれのうちに立つこと:2021年の私たちがいる地点

 
 現象学、そして『存在と時間』において賭けられている根本の問いとは、次のようなものであると言ってよいだろう。
 
 
 問い:
 見ること、そして、生きることは、何か真実なものに関わる経験であるのでなければならないのではないか?
 
 
 もしもこの問いに対して「否」と答えるのであれば、その時、生きることそれ自体は虚妄か幻であるに過ぎなくなる。その意味では、生を本当の意味で生きようと望む人にとっては、この問いは、自分自身と無関係なものではありえないと言えるのではないか。
 
 
 わたしが生きているこの世界は、本当に存在するのだろうか。風が吹き、木の葉が穏やかに揺れている。わたしの目に映るあの木は、今わたしが目にしている通りに、本当に「ある」と言えるのだろうか。
 
 
 現象学はこの問いに対して「然り」と答えるが、その答えの正しさを抽象的な議論で証明したり、経験の外側から論証したりすることはない。むしろ、現象学は見ること、そして生きることのただ中へと突き入っていって、そこで人間が何に出会うのか、どのような世界が開けてくるのかを根源的に経験しなおそうとする。この意味では、現象学とはまさしく、生きることを取り戻す試みにほかならないと言うこともできるだろう。
 
 
 すでに論じたように、『存在と時間』を書いた時期のハイデッガーにとっては、「存在者がおのれを示す」という表現こそが、事柄の核心をまさしく言い表す言葉にほかならなかった。見ること、そして、生きることにおいては、「存在者が自分と等しいあり方において、自分自身を示す」。この意味では、生きることとは、何か真実なものに関わる経験以外の何物でもない。現存在であるところの人間は、世界内存在することがその根本体制に属する存在者として、世界そのものへの開かれのうちに立つのである。
 
 
 
現象学 存在と時間 ハイデッガー 存在するとは別の仕方で エマニュエル・レヴィナス 21世紀
 
 
 
 1927年の『存在と時間』出版から五十年ほどのち、1978年に提出された『存在するとは別の仕方で』においてエマニュエル・レヴィナスは、ハイデッガー哲学の成果を踏まえつつ、「存在」概念の苛烈な問い直しを行った。
 
 
 これは、およそ哲学の歴史においてこれほどに「あること」そのものに向けて徹底的な糾弾が行われたことはないというほどに、根底的なものであった。この問い直しとともに、哲学はおそらく、存在するということそのものをもう一度根源から思惟しなおす必要性に向き合わされることになった。21世紀初頭を生きている私たちが位置しているのは、歴史のこの地点である。哲学の歴史はゆっくりとしか進まないけれども、私たちもこれまでの時代を生きてきた人々と同様、「他のどんな時代でもなく、今のこの時代を生きている私たち自身に差し向けられた問い」と共に、歴史のうちに投げ出されているのである。
 
 
 しかし、たとえそのような事情があるにしても、ハイデッガーが『存在と時間』とその後の思索において行った問題提起は、2021年の現在においても依然としてアクチュアルなものであり続けていると言えるのではないか。すなわち、見ること、そして、生きることのうちでは、「存在者がおのれを示す」という驚異が何らかの意味で生起しているのでなければならないのではないか。人間としてのわたしが生きるということは、世界への、そして、存在への開かれのうちに立つことにほかならないのではないかという問題提起がそれである。
 
 
 哲学を追い求める人間は、根源的なところで問いを問うことを恐れてはならない。その問いが率直で、深いところから出てくるものであればあるほどに、その問いはすべての周辺的な物事を突き抜けるようにして、真理そのものの核心に触れるはずなのである。ともあれ、以上のことを確認した上で、私たちとしては、真理の現象における言明の位置づけを問いつつ、根源的な真理概念を獲得するというかねてからの課題の方に戻ることとしたい。