イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真理論の鍵概念「覆いをとって発見すること」:あるいは、論理学が存在することは自明であるか?

 
 さて、「壁にかけられた絵」の例の分析も、いよいよ大詰めである。
 
 
 「壁にかけられた絵が曲がっている」という言明は、何を行っているのだろうか?もちろん、現実に存在する事物である壁の絵について、何ごとかを語っているのである。それでは、そもそも語るとは一体、何を行うことなのであろうか。
 
 
 その答えの手がかりはすでに、与えられている。すなわち、すでに論じたように、言明が確証されるとは、「存在者が、自分自身がそうある通りの姿で示されること」であった。この場合には、絵が、それ自身そうある通り、つまり、曲がってかけられていることが、見ることにおいて示されることに等しい。
 
 
 言明は、このような「存在者の自己提示」へと向かうのである。つまり、言明は存在者を提示し(自己提示させ)、「見えるようにさせる」(アポファンシス)。この働きをハイデッガーは、「覆いをとって発見することentdecken」として捉えるのである。
 
 
 この「覆いをとって発見すること」という術語は、『存在と時間』における最重要語の一つであるとともに、真理論の中核をなす鍵概念である。なお、この訳語は岩波文庫熊野純彦訳によるものであるが、「覆いをとって」という部分はハイデッガーがこの語に込めたニュアンスを再現するために訳者の配慮によって付け加えられたものであるため、この読解では単に「発見する」と表記することもあることを付け加えておきたい。
 
 
 いずれにせよ、言明は存在者へと向かってゆき、その存在者を、それが自分自身そうある通りの姿において「覆いをとって発見する」。ハイデッガーの見るところでは、この働きこそが実存論的分析が言明について見てとらなければならない、真理の現象の核心部にほかならないのである。
 
 
 
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 このポイントは非常に重要なので、一応参考のために、ハイデッガー自身の言葉を引いておくことにしたい。
 
 
 「言明が真であるとは、言明が存在者をその存在者自身にそくして覆いをとって発見していることを意味する。言明は存在者をその覆いをとったあり方において言明し、提示し、『見えるようにさせる』(ἀπόφανσις)[アポファンシス]。言明が真であること(真理)とは、覆いをとって発見しつつあることと解されなければならない。」(『存在と時間』第44節aより)
 
 
 言明のこの捉え方の、一体何がそれほどまでにラディカルなのであろうか。このラディカルさは、言明が、あるいは言葉が存在することを当たり前の事実とみなさず、それこそ最大限度の驚きを持って言葉の存在そのものを受け止めようと努めるときに、はじめてそれとして理解しうるものとなると言えるのではないか。
 
 
 たとえば、現代を生きている私たちはアリストテレスの論理学、そして、フレーゲ以降のアップデートされた論理学がすでに存在してしまっている世界を生きている。仮に、アリストテレスフレーゲといった名前を知らなくとも、哲学を学び始めるときには「この世には論理学というものが存在する」という事実は今さら驚くまでもない前提とされてしまっているのであって、このことは、もはや動かしえない既定事実であると言ってよいだろう。
 
 
 さて、論理学なるものが存在することを当たり前のこととみなしてしまったならば、「言明とは事実と一致するものです。それが言明が真理であるということです」と教えられたとしても、何の疑問も生じないであろう。すなわち、「言明(認識)は事物と一致する」、あるいは、「命題は事態と一致するときに真である」。これほど当たり前のこともないように見えるのであって、私たちは少なくとも学びの最初の時点においては「ふーん、そういうものか」とこの話を受け入れ、「一致」のイデーを無意識のうちに承認するに至る。「物と知性との一致」は、それとしてはっきりと口に出して言われないままではあっても、私たちの真理観や、言語観を規定してしまう。
 
 
 しかし、「そういうものか」と思って通り過ぎてしまったその時点で、すでに真理の根源的な現象は隠蔽され始めてしまっているのだというのが、ハイデッガーのここでの主張である。すなわち、論理学なる知が存在することすらをも当たり前のこととみなさず、論理学が存在しない世界から、存在する世界への「跳躍」をあらためて受け止め、その「跳躍」を根源のところから思索しなおす時にはじめて、言明の「覆いをとって発見すること」が驚異、あるいは顕現の神秘として立ち現れてくる。この辺り、何気に21世紀初頭の現在においても論争を巻き起こすことは避けられない領域に大きく足を踏み入れている論点であるため、私たちとしては、もう少しこの点に踏みとどまって考えておかなければならない。