イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「現存在は真理のうちで存在している」:再び、ウィトゲンシュタインとの比較

 
 言明が真であることを「覆いをとって発見すること」と捉えるところから、『存在と時間』の真理論の、さらなる歩みが開かれる。
 
 
 論点:
 言明することは、覆いをとって発見することの一つのあり方に過ぎないのではないか?
 
 
 たとえば、ものを見るというまなざしの経験などは、「覆いをとって発見すること」の典型に他ならないであろう。見ることにおいては、存在者が、自分自身がそうある通りの姿においておのれを示す。見ることによって、わたしは世界のうちにある存在者を発見しつつ、その存在者に出会うのである。
 
 
 『存在と時間』の枠組みから言えばより重要なのは、道具を用いながら生活するという、日常的な生のあり方である。わたしはたとえば、階段を下りながら駅のホームへと降りてゆく。わたしは、階段の存在をことさらに意識することはないけれども、階段は階段「として」利用されることのうちで、ある種の仕方で「覆いをとって発見されている」と言えるのではないか。道具は道具に特種な仕方において、すなわち、目立たない仕方で用いられるというあり方において発見されているのである。
 
 
 つまりは、こうである。現存在、すなわち人間として生きているわたしにとっては、生きることそのものが、「覆いをとって発見すること」という存在の仕方と切り離せないのではないか。世界内存在することそのものが、発見するというモメントなしには一瞬たりとも成り立ちえないのではないだろうか。まさしくその通りなのであって、ここからハイデッガーは、「真理の場所は言明(判断)にある」というテーゼを維持し続けてきたこれまでの哲学の伝統に対して異を唱えつつ、真理の現象を、狭い意味での言葉の領域から解き放つのである。今や見出されるのは、生きることとは、その本質からして「真理のうちで生きること」にほかならないという、存在論的な事実にほかならない。
 
 
 
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 「現存在がその本質からしてじぶんの開示性であり、開示された現存在として開示し、覆いをとって発見するかぎり、現存在は本質からして『真』である。現存在は『真理の内で』存在している。」(『存在と時間』第44節bより)
 
 
 この「現存在は真理のうちで存在している」こそが、ハイデッガー真理論の根本テーゼにほかならない。このテーゼを「アレーテイア」という言葉の関連において検討することが目下の重要な課題であるが、その前に、『存在と時間』のこの真理観をウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のそれと再び比較しておくことにしよう。
 
 
 『論理哲学論考』のプログラムは「物と知性との一致」という伝統的真理概念に依拠するのみならず、「真理の場所は言明(判断)である」というテーゼのうちにも、暗黙のうちに依拠してしまっている。むしろ、『論考』はフレーゲによる論理学の仕事に基づいてこれらの伝統的なテーゼの帰結を極限にまで推し進めることによって、哲学の営みを、言語について語ることのうちへと閉じ込めてしまったと言えるのではないか。
 
 
 その結果、哲学の語りは確かに、すでに述べたように、異様な明晰さとコンパクトさとを獲得することにはなった。しかし見よ、その結果として哲学は、何という代価を支払わなければならなかったことか。何という虚無と不毛の雰囲気が、哲学的生の全体を覆ってしまったことであろうか。ウィトゲンシュタインこそは哲学の暗殺者であったとのジル・ドゥルーズの言は、この意味からすると、決して的外れなものであるとは思われないのである。
 
 
 真理という言葉が指し示す圏域は、狭い意味での「言葉」や「判断」、あるいは「命題」と呼ばれる領域をはるかに越えて広がっているのではないか。この広がりを思考において捉えることが、哲学の営み自体が生きるか死ぬか、ひいては、生きることそのものに意味が与えられうるかどうかという重大局面に根底から関わっているとしたら、どうであろうか。この意味からすると、真理論の問題は、その帰結が生の全体にまで及ぶことになるような、「根本問題の中の根本問題」であることは確かである。「真理とは何か」という問いは決して、哲学者の議論の中だけにとどまるような無害な問いではありえないのである。