イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

実存の真理の圏域へ:『存在と時間』読解の前半戦を終えるにあたって

 
 開示する、すなわち、覆いをとって発見する現存在(人間)こそが、根源的な意味で「真」である。このように思考の歩みを進めるとき、一つの問いが立てられる。
 
 
 問い:
 これまでの実存論的分析は、現存在であるところの人間を自分自身に対して、十全な仕方で開示してきたのか?
 
 
 人間はすでに、ここまでの『存在と時間』の分析に対して、おのれ自身の姿を現していると言えるのだろうか。この問いに対するハイデッガーの答えは、次のようなものである。
 
 
 ハイデッガーの答え:
 現存在であるところの人間の、実存の本来性のあり方が明らかにされない限り、人間は人間に対して明るみにもたらされたとは言えない。
 
 
 これまでの実存論的分析(道具を用いる「配慮的気づかい」、内存在を構成する「情態性」「理解」「語り」)において問題とされたのは、もっぱら日常性における人間に限られていた。しかし、人間には自らの日常性を突き抜ける瞬間、ほとんど狂気とすれすれのところで、自分自身の本来的な可能性を掴みとる瞬間といったものも存在しているのである。
 
 
 そうであるとするなら、実存論的分析論はいまだ、最も根源的な真理とでも呼ぶべきものには到達していないことになる。最も根源的な真理とは、人間が自分を自分自身に対して本来的な仕方で開示すること(=覆いをとって発見すること)であり、人間であるところのわたしが、わたし自身の最も固有な存在可能に向かって飛び込んでゆきつつ、それを開示することである。最も根源的な真理とはしたがって、実存の真理にほかならない。これが、ここまで来てしまうともはや古代ギリシアの哲学者たちの思索を突き抜けて、何か別の次元とでも呼ぶしかないもののうちへと入り込んでしまっていると思われるところの、『存在と時間』の真理論の最内奥地点にほかならない。
 
 
 
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 「現存在がそのうちで存在可能として存在することができる、もっとも根源的で、しかももっとも本来的な開示性とは実存の真理なのである。この実存の真理は、現存在の本来的なありかたを分析するという連関にあって、その実存論的-存在論的に規定されたありかたをはじめて獲得する。」(『存在と時間』第44節bより)
 
 
 哲学の営みは、究極的には日常性の次元を少なくともいったんは突き抜けてゆかなければならないのではないか。『存在と時間』において行われる実存論的分析論の行程を突き動かしているのは、根本においては、このような直観に他ならないといえる。
 
 
 『存在と時間』は真理論を展開している第44節までの部分と、それ以降の部分とで、前半部と後半部とにくっきりと二分される。第44節までで、それまで議論されてきたことにはいったんの収束がもたらされ、統一したヴィジョンが語られる。歴史にifはないとはよく言われることだが、仮にハイデッガーがこの第44節までの議論の成果をまとめるにとどまったとしても、一冊の書物(それも、すでに十分に冒険的かつ革新的な書物)にはなったことであろう。
 
 
 しかし、20世紀最大の書物の一冊であるところの『存在と時間』は、ここではまだ終わらないのである。それは、これまでの行程においては、人間が人間であることが根源的な仕方で示される決定的な瞬間が、いまだ語られていないからである。日常性を突き抜けた「別の次元」において、死や、内なる呼び声といった現象が関わってくるある種の「限界状況」において、人間は、人間自身を真に本来的といえるような仕方で開示する。人間が、自分自身の終わることのない日常を本当の意味で生きることができるのは、この「実存の還帰不可能地点」をくぐり抜けた後のことであると言えるのではないか。
 
 
 かくして、真理論のリミットにまでたどり着いたこの時点で、『存在と時間』の読解の前半戦は終了となる。四ヶ月かかったが、これでようやくこの本において論ずる予定の部分の7分の4ほどを読解し終えた。読解の後半戦では、人間が自分に対して自分自身を本来的な仕方で開示するところの、実存の真理の圏域が問われることになるだろう。次回の記事では、読解全体のプランに関する補足をかねていったん休息を取りつつ、その後にこの課題に取り組むこととしたい。