「現存在であるところの人間は、真理のうちで存在している。」真理論の中核をなすこのテーゼに対して、次のような問いを投げかけるところから、読解の後半戦を始めることにしよう。
問い:
人間は、本当に「真理のうちで存在している」と言えるのだろうか?
このテーゼが一面において、人間という存在者のあり方を、この上なく鋭く言い当てていることは確かである。人間は世界に向かって開かれ、世界のうちにある存在者を「覆いをとって発見しながら」存在している。人間の本質的なあり方を簡潔な表現のうちに凝縮したこのテーゼはおそらく、哲学の歴史のうちでも、最も含蓄の深いものの一つであろう。
しかし、その一方で事実上の人間、すなわち、現実に存在している人間の姿を目にするとき、あるいは、自分自身の姿を振り返るとき、私たちが人間について、このテーゼの言わんとするところとはまさしく正反対とも言える印象を抱くこともまた確かである。人間は、真実よりも偽りを好み、現実そのものよりも、自分にとって心地よい言葉や情報の方をはるかに好んでいるようにも見える。一体、どちらが人間の本当の姿なのだろうか。
この点に関するハイデッガーの主張は、次のようなものである。
すなわち、本来的には真理のうちで存在しているはずの人間は、「頽落する」というおのれに課された運命(この点については、後に論じることになるだろう)によって、非真理のうちに落ち込んでゆくこともまた、定められているというのである。世界への開かれはこうして、閉ざされ、見せかけのものへとすり替えられ、根こそぎにされることになる。人間はしたがって、現実の世界を生きているようでいながら、自分でも気づかないうちに、すり替えられた一種の「偽りの現実」のうちで生きることになる……これが、現代の哲学者であるハイデッガーが『存在と時間』で描いてみせるところの、人間という存在者のむき出しの姿にほかならない。
したがって、これまでの読解において一応は論じ終えた『存在と時間』の真理論には、まだその裏面が残っていることになる。すなわち、「現存在は真理のうちで存在している」に対する「現存在は非真理のうちで存在している」。人間の根源的な開かれは、開かれると同時にただちに閉鎖され、生きることは、そのまま「生きることの見せかけ」へと変質してゆく。真理のうちに投げ込まれたと思ったところで、人間はただちに、真理の見せかけであるところの非真理のうちへと投げ込まれてゆくのである。
注意すべきは、このような事態は何かの事故や偶然ではなくて、人間が人間である限りは必ず巻き込まれざるをえないところの、人間の実存を形づくる根本体制にしたがって起こるとハイデッガーが考えている点である。非真理は、人間がそれを好もうと好むまいと、気づかないうちに人間の生のうちに侵入してくる。この見方によるならば、「何かちっとも生きている気がしない」という思い、あるいは、「わたしが生きているのは本当に現実なのだろうか」という疑問が人間に生じてくるのは、なんら不思議なことではない。人間は実際に、自分自身の生を生きていないのである。あるいは、彼あるいは彼女が生きているのは本当の現実ではなくて、現実の見せかけなのである。
こうして、私たちが『存在と時間』という本のうちに読みとった「生きることを取り戻す」という根本モチーフはここに至って新たな、そして、緊急の意味を獲得することになる。人間の世界内存在は、この世界内存在そのものを根こそぎにしてしまうメカニズムによって、絶えず骨抜きにされているのではないか。読解の後半戦の主題はしたがって、世界内存在そのものが襲撃され、中性化され、無力化されてゆくそのあり方を見定めつつ、それでも人間が世界内存在をふたたび根底から取り戻すということが起こりうるとしたら、そのときには何が生起しなければならないかを探るといったものになるだろう。「わたしは本当に、現実のうちを生きていると言えるのだろうか。」一挙に現代的な色合いを帯びてゆくこの本の思考の歩みを、一歩一歩、丹念にたどってゆくこととしたい。