イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

〈ひと〉の体制と、最も固有な存在可能:『存在と時間』後半部の根本主題

 
 『存在と時間』読解の後半を進めてゆくにあたって、先に、後半戦の根本主題を確認しておくことにしよう。
 
 
 後半戦の根本主題:
 現存在であるところの人間は、いかにして実存の本来性にたどり着くことができるのか?
 
 
 注意しておくべきは、この根本主題が奥底のところで、私たちがすでに見てきた真理論の問題意識に、そして、その裏面にもつながっているということである。
 
 
 「現存在は、真理のうちで存在している。」しかし、世界への開かれのうちで存在しているはずの人間は、ある宿命的な存在体制によって、この開かれを閉ざされ、見せかけのものへとすり替えられ、生そのものが根こそぎにされてしまうといった傾向のうちに常に置かれている。したがって、実存論的分析が「現存在は真理のうちで存在している」と言いうるのと同時に、「現存在は非真理のうちで存在している」とも言わざるをえない必然性が、ここに生じてくるというわけである(真理論の裏面)。
 
 
 これから論じてゆくように、ここには〈ひと das Man〉という実存カテゴリーが深く関わっている。現存在であるところの人間は、他者と歩調を合わせて生きる〈ひと〉であることのうちで自らを失っており、自分自身でありうるという可能性を奪われている。ハイデッガーによれば、人間は本来的に実存する可能性をそれと気づかないうちに剥奪されることによって、同時に、非真理のうちへと投げ込まれてゆくのである(非本来的な実存としての、現存在の日常性)。
 
 
 したがって、読解の後半戦において立てられる、根本の問いはこうなる。人間から自分自身であることの可能性を奪いとる〈ひと〉の体制とは、どのようなものか。〈ひと〉の体制は事象そのものに即した現象学のまなざしによって、どのように記述されうるか。そして、この体制を打ち破り、真に自分自身であることを掴みとるところの実存の本来性なるものは、もしもそのようなものが存在するとすれば、どのようにして獲得されるのだろうか。実存の本来性は、最も根源的な仕方で開示することとして、「現存在は真理のうちで存在する」を再び打ち立てることができるのだろうか。
 
 
 
存在と時間 現存在 das man 実存 可能性 ハイデッガー キルケゴール コモン・センス 哲学
 
 
 
 この実存の本来性なる主題を考えてゆく上で鍵となる概念が、「最も固有な存在可能」にほかならない。
 
 
 日常性における人間は、最も固有な存在可能などというものは絵空事か空想としてしか捉えなくなるほどに、〈ひと〉のうちで自分自身を見失っている。「自己であること」は、日常性における人間からはそれほどに遠いのであると、ハイデッガーは捉えているわけである。
 
 
 もっとも、このような物の見方は決して、哲学の歴史において、ハイデッガーの専有物であったというわけではないだろう。
 
 
 ハイデッガーに近い時代でいうならば、たとえばキルケゴールこそは、このような「最も固有な存在可能」を熾烈な思惟の闘いのうちで追い求め続けた先駆者にほかならなかった。彼は、同時代の哲学のあらゆるコモン・センス(このコモン・センスは彼にとって、「自己でありうること」の問題から目を逸らしたままですべての問題が解決したかのような、ある種の偽りの繁栄に浸っているように見えた)に抗して、「人間は『自己であること』を掴みとらなくてはならない」と主張し続けた。ハイデッガーの実存論的分析は、彼をはじめとする実存の探求者たちの残した思索の成果を、現象学のまなざしを通して、学問の言葉として根源的に捉え直そうとしたものであるとも言えるのである。
 
 
 しかし、この「最も固有な存在可能」なる概念を捉えるためには、まずはこの概念が指し示す圏域を覆い隠している、〈ひと〉なるものの体制についてしっかりと見定めておかなくてはならないだろう。人間が本来的に実存する可能性をあらかじめ遮断してしまう〈ひと〉の機構とは、どのようなものか。このような、一見すると捉えどころがないようにも見える主題に対して、哲学の言葉ははたして何を語ることができるのだろうか。『存在と時間』の思考がここに至って、冒険的な圏域に入り込んでゆくと言わざるをえない必然性がここにある。これまで学問の領域においてはおおっぴらに語られることのなかった実存の深淵へと、学問の言葉を武器にして果敢に切り込んでいったという意味でも、この本はまさしく「二十世紀の運命の一冊」であったと言えるであろう。