イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「開かれていることの見せかけ」としての公共空間:ハイデッガーの〈ひと〉論の射程

 
 日常性における人間の実存は〈ひと〉によって引き受けられ、〈ひと〉によって支配されているのではないだろうか。これからこの問題を問い進めてゆくにあたって、最初に一つの論点を確認しておくこととしたい。
 
 
 論点:
 『存在と時間』においては、〈ひと〉、そして公共性という語はもっぱら、その否定的側面において捉えられている。
 
 
 先に断っておくならば、公共性に対するこのようなアプローチの仕方は少なくとも、哲学の伝統においては「正統派」に属しているといえる。哲学者たちは、たとえ公共性なるものを擁護する側に立つことがあるとしても、同時に、そこに鋭い疑念のまなざしを向けながらそうしてきたのであって、もしも哲学者がナイーブかつ無批判的に公共性の次元を受け入れるようなことがあるとすれば、哲学の伝統からすれば、むしろその方がずっと不自然であると言えそうである。
 
 
 「人間は、一人でいるときにはしっかりとものを考えるけれども、二人以上になってしまうともう駄目である。」〈ひと〉の体制に対する『存在と時間』の分析は一読したところでは、公共性の次元に対する徹底したペシミズム以外の何物でもないように見える。そして、実際にもある程度まではその通りなのであるが、ハイデッガーのこのようなスタンスは異端的なものであるというよりも、むしろ、ある種の伝統芸能にも近いやり方を引き継いでいるものであることを、ここに繰り返し強調しておきたい。
 
 
 〈ひと〉論は、プラトンのドクサ批判や、ルソーの社会批判とも深いところで響き合い、直接的にはキルケゴールの公衆批判を先駆者として持つところの、いわば「二十世紀のスタンダードな公共哲学の決定版」である。ハンナ・アーレントの例のアイヒマン論などは、この〈ひと〉論の直接の後継者であると言うこともできるであろうが、彼女のケースに限らず、この論が二十世紀の哲学に及ぼした影響は非常に大きいといえる。付け加えるべきことは多々ありそうであるが、その機会は、一通り分析が終わった後に回すこととして、目下のところは、この〈ひと〉論のスタンダード性を強調するにとどめておくこととしたい。
 
 
 
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 『存在と時間』の〈ひと〉論は、私たち人間が形づくっている公共の言論空間なるものを、一種の「開かれていることの見せかけ」として、あるいは、人間の相互共同存在を内部から覆い尽くしてゆく、愚昧と怠惰と欺瞞の大いなる組織化として描き出している。
 
 
 〈ひと〉と頽落のあり方を典型的な仕方で示す三つの様態について、先に概観しておくことにしよう。公共空間ではいつも、ひっきりなしに何事かが「注目の話題」となってさかんに論じ立てられてはいるが、一つの主題をめぐってひたすら盛り上がっているだけで、事柄そのものについては実際のところ、ほとんど何も思考されてはいない(「空談」)。何にでも興味を持って、次から次へと新しい話題が「いま急上昇中のトレンド」として浮上してくるが、そうしたことの全ては究極的には、暇つぶしか気晴らし以外の意味を持っているわけではない(「好奇心」)。「すごい発見だ!」「これを言った人って、本当に素晴らしいと思う」といった類の発言には事欠かないが、公共空間なるものはそもそも、何がすでに発見されていて何がいまだ発見されていないかについての認識をはっきりと持っておらず、また、持とうと意志しているわけでもないので、さながら、永遠の無知の暗闇の中で終わることのないお祭り騒ぎをしているような状態に近い(「曖昧さ」)。
 
 
 このように、ハイデッガー本人は『存在と時間』の当該箇所において「ここでは、〈ひと〉のあり方を批判することが目的では決してない」とくり返し断り続けているにも関わらず、この箇所を読む人は、もしもこれが批判でないとしたら、逆にこの叙述は一体何なのであろうかとの疑問を持つことは避けられないものと思われる。ただし、この〈ひと〉論も、ただ無定見に公共性の次元を批判し続けているというのではなく、それまでの実存論的分析の成果を踏まえた上で、そこで獲得された「真理への開かれとしての人間存在」というヴィジョンの戯画あるいは裏面として、日常性における人間の実存のあり方を学問的に捉えようとする意図に基づいて書かれていることは確かである。この意味からすれば、この〈ひと〉論において目指されているのは、もしも本来的な相互共同存在なるものがありうるとしたら、その時には、人間同士の関わりは何を免れていなければならないかを見定めることであるとも言えるであろう。
 
 
 純粋に哲学的な見地からするならば、〈ひと〉のあり方が、これまでに見てきた「世界内存在」「情態性」「理解」「語り」といった契機と密接に関連させられながらクリアーに論じられてゆくそのやり方は、非常に興味深いものであるといえる。ともあれ、以上のことを確認した上で、「空談」「好奇心」「曖昧さ」という〈ひと〉の三つの様態についてもう少し詳しく論じるところから、議論を掘り下げてゆくこととしたい。